とある魔術の禁書目録《インデックス》 第十六巻 鎌池和馬 [#改ページ]    c o n t e n t s [#ここから3字下げ] 序 章 指導者としての立ち位置 Stage_in_Roma. 第一章 平穏から破滅へ続く道筋 Battle_of_Collapse.   行間 一  第二章 敗北から立ち上がる者達 Flere210.   行間 二  第三章 桁の違う怪物同士の死闘 Saint_VS_Saint   行間 三 第四章 誰が誰を守り守られるか Leader_is_All_Members.   行間 四 終 章 さらなる騒乱への案内人 True_Target_is...... あとがき   [#改ページ] 序 章 指導者としての立ち位置 Stage_in_Roma. [#ここで字下げ終わり]  ローマ教皇には、とある一つの鮮烈な思い出がある。  イギリス清教との会合を行うため、ロンドンへ赴《おもむ》いた時の事だ。  旧教《カトリック》の三大宗派の一つ、イギリス清教のトップはローラ=スチュアートという年齢不詳の女性だった。その女は、確かに巨大組織を束ねるに足る実力を持っていた。何しろ、自らの真意や本音を伏せる事はおろか、議題の隠された王旨や方向性に気づいた時には、すでにその採択が取りつけられているという状況を作り出せるほど、巧みに言葉を使う人間だ。少しでも気を緩めれば、どんな条約を取り決められるか分かったものではない。同席したローマ正教側の書記の三名は、緊張《きんちょう》に耐えかね途中で医務室に運ばれたほどだった。  しかし、ローマ教皇にとって一番鮮烈なのは、そこではない。  問題なのは、会合が終わってから三〇分後の事だった。  場所は聖ジョージ大聖堂の近くにあるランベス宮。イギリス清数の最大主教《アークビショップ》が住まう官邸の前を、ローマ教皇を乗せた高級車が通りかかった時、信号待ちで一時停止している最中に窓を開けた所、宮殿の方からこんな声が聞こえてきたのだ。 「まーだ九月の始めだと言うのに、かようにクリスマスカードと言うのは大量に届きしものなのね……」 「クリスマスになってからでは遅すぎます。この時期に届くというのは、それだけ我々の事情を鑑《かんが》みてもらえている証《あかし》でしょうね。毎年イギリス中から送られてくる二五万通ものクリスマスカード全《すべ》てに目を通すのは、それはそれで大変な重労働ですから」 「他人事《ひとごと》みたいに聞こえしなのよ、神裂《かんざき》」 「さて、何の事やら。それより一二月のスケジュールが決定しました。時期が時期ですから、最大主教《アークビショップ》にはサンタクロースの格好をして四三ヶ所の児童養護・福祉施設を回ってもらいます。これも公務ですので、どうかご了承ください」 「うむ。鼻血必至の悩殺ミニスカサンタセットはすでに調達できたるのよ」 「ッ!!!??? 今、自信満々にウムとか頷《うなず》いて変な事を言いませんでしたか!?」 「いや実を言ふとわたしも恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて仕方がなしなのだけれどそこはほれ敬虔《けいけん》なるイギリス清教信徒のためならば一肌脱がねばならぬといふ断腸の思いでだな」 「物理的に一肌脱いでどうするつもりなんですかこの変態!!」 「ハッ! まさか、ミニスカサンタは変態と呼ばれるまでにお寒く感じられしほどに旬《しゅん》が過ぎ去りたるものとでも言うの!?」 「いやええと、そういう次元ではなくそもそもイギリス清教の最大主教《アークビジョップ》がミニスカートなどという脚部を大幅に露出《ろしゅつ》するような衣装を選ぶ事自体に問題が———」 「フッ。ミニスカサンタ如《ごと》きでは納得せぬか。やはりサービスショットのグラビア本家は遠いたるわね。これぞ、わざわざ日本流の『オン=ガエーシ』で幻想殺しの少年相手に本気で一肌脱ぐ決意を固めた神裂火織《かんざきかおり》。常に露出度の最前線で戦いける女である事よ」 「やかましいこのド素人が!!」 「ッ!?」 「さっきっから黙《だま》って聞いてりゃペラペラと!! そもそもテメェがあの子に『首輪』なんて変な術式を組み込まなけりゃ変な所で借りを作ってその恩を返す事もできず土御門《つちみかど》にからかわれたりもしなかったのに!!」 「かっ、神裂? 神裂さーん……? あの、ええと、先ほどから口調がおかし———」 「言葉遣いに関してテメェにゴチャゴチャ言われる筋合いはねえこのクソ野郎!!」 「ッ!? いっ、今ちょっと聞き捨てならぬ事を言われしような……よっ、ようし叱《しか》りけるわよ。コラ神裂!! 仮にもイギリス清教のトップに向かいてその口ぶりはいかがなものなりしなの!? 「黙れド素人が……。私は決めたんです。海の家で土御門の変態野郎にゲラゲラと爆笑された時から、全《すべ》ての元凶はこのバカ女であり、このバカ女さえいなければ恩返しとかいう話もなかったのであり、従ってもうこのバカ女を尊敬するのはやめようってなァああああああああああ あああああ!!」 「ひっ、ひぃいい!? すている、ステイルーっ!!」  とんがらがっしゃーん、とランベス宮の方から、やけに軽快な破壊音《はかいおん》や楽しげな悲鳴が飛んでくる。  礼儀《れいぎ》作法で言えば間違いなく赤点と評されるし、身分や階級というものを考えればまずありえない会話の応酬《おうしゅう》だった。そもそもランベス宮という秘中の秘とも呼ばれる聖域から、魔術師《まじゅつし》同士の会話が表まで聞こえているという事自体がすでに問題でもある。現に、近くを歩いている子供連れの主婦は彼女達の声に最初|驚《おどろ》き、それからくすくすと笑って通り過ぎている。  何もかもが不可解。  だが、そこには笑顔しかなかった。  年齢による差異、力による上下関係、信仰による威光と威厳、それら全ては取り外され、ただただ平等な世界が広がっていた。  多数の護衛に守られ、黒塗りの高級車の後部座席に腰を沈めていたローマ教皇は、その光景を呆然《ぼうぜん》と眺めていたものだ。  とても聖ジョージ大聖堂で世界を動かす会合を軽々とこなしていた女性とは思えない。しかしそれでいて、十字教としての教義から圧倒的に外れているとも思えない。そう、あらゆる信徒を見守る父は確かにこう言った。隣人《りんじん》を愛せと、人類は皆兄弟であり、王の前において全ては平等であるのだと。それは、まさしくこういう事ではないのか。  年齢や地位を重ねるごとに難しくなる事柄。  ただ目上の者が平等に接してやるのではない。ただ日下の者が相手を怒らせないように振る舞っているのでもない。ローラ=スチュアートはどんな相手ともケンカをし、悪態をつき、暴れ、時には少し涙声になる。しかし最後にあるのは笑い声だ。  そんな昼下がりの些細《ささい》な喧騒《けんそう》が、ローマ教皇にはとても羨《うらや》ましく感じられた。  あれがイギリス清教の最大主教《アークビショツプ》。  一〇年前でも二〇年前でも……ローマ教皇が初めてイギリスの地を訪問したその時から、年齢不詳のあの女は、ずつとそんな風に笑っていたように、思う。  皆の中で、皆と共に。  そんな感慨《かんがい》にふけっていたローマ教皇は、現在イタリアの首都・ローマの市街地を歩いている。  バチカンを離《はな》れ、聖ゴスティーノ教会で軽く講演を終えた帰りだった。バチカンまでの道のりはおよそ一・五キロ。教皇は、ローマ市内で活動した折は、送迎車を使わずに徒歩で移動する事を心がけていた。それは単純に健康面の都合でもあるし、ローマ市内の空気を好んでいるからでもあるし、何より市井《しせい》の者と少しでも多くの接点を作っておきたかったからだ。  今もすれ違う観光客はギョッと身を固めてカメラを構える事も忘れ、建物の窓には信心深い中年の女性が祈りを捧げている。  しかし、 「……好ましい状況とは言えませんね」  傍《かたわ》らにいた書記の男がボソリと、ローマ教皇の耳にだけ入る声で告げた。書記という肩書きはあるが、実質的には武道派の護衛官だ。肩書きを変える事で、『武力を持つ者の入れない場所』でもローマ教皇の側《そば》にいる権利を得ている訳である。  書記は続ける。 「やはり、徒歩での移動はリスクが高すぎます。今も周辺に複数の護衛を配置していますが、これも万全とは言えないでしょう。移動には術的防護を施《ほどこ》した車両団を編成するべきです」 「分かっている」 「『十字教は皆に平等である』という宣伝ならば、他にも効率の良い方法はいくらでもあるでしょう。適切な寄付を行ったのち、児童養護施設や医療《いりょう》施設を訪問する方が好感度の調整には……」 「分かっていると言っている」  気分を壊《こわ》されたローマ教皇は、やや語気を強くして、もう一度繰り返した。  書記は黙る。  ローマ教皇は重たい息を吐いた。いくら平等を求めても、それが成功しているとは思えない。こちらを見る通行人や観光客は、驚《おどろ》きや尊敬の眼差《まなざ》しを向けてくるだけ。かつて見たローラ=スチュアートのような、『輪の中』へ入っている感じが全くしない。  と、狭い路地から薄汚《うすよご》れたボールが転がってきた。  直径は三〇センチほど。子供向けに作られた、ビニールのようなゴムのような、テカテカした素材の安っぽいボールだった。  ローマ教皇は思わず身を屈《かが》めてボールを取ろうとしたが、書記の手がそれを遮《さえぎ》った。ローマ教皇の身動きが止まった時、路地からボールを追って子供が飛び出してきた。この辺りでは珍しい、ストリートチルドレンなのだろう。泥だらけのボールよりも汚れた服を着た、一〇歳ぐらいの女の子だ。  今度こそ、ローマ教皇は書記の手を振り払って、ボールを取ってやろうとする。  しかしその前に、鋭い声が遮った。 「やめて」  見ると、声の主は当の女の子だ。 「そんな大層な服を汚したら、どんな目に遭うか分からないから」  その冷たい響きに、ローマ教皇は雷撃でも浴びたように動きを止めた。その間に女の子はボールを拾うと、まるで暴漢にでも警戒するようにジリジリと距離を取って、元来た狭い路地へと逃け帰っていった。 「……、」  呆然とするしかなかった。  隣人《りんじん》を愛せ、人類は皆兄弟であり、王の前において全《すべ》ては平等である。  その言葉を思い浮かべ、ローマ教皇は深く深く、奥歯を噛《か》み締《し》める。 「問題だな……」  思わずポツリと呟《つぶや》くと、傍《かたわ》らにいた書記はすぐに頷《うなず》いた。 「ええ、仮にも二〇億人もの信徒を一手に束ねるローマ教皇様に対して、あのぶしつけな言葉遣い。断じて、あってはならない事です。ましてイタリアと言えば総本山だと言うのに信徒を名乗るのなら、最低限の質くらいは維持して欲しいものですね」 「……、」  まったくもって何も分かっていない書記の言葉に、ローマ教皇はさらにため息を吐《つ》く。  一体、いつからこんな風になってしまったのか。  もはや、得体《えたい》の知れない距離感に寒気を覚えるしかなかった。 [#改ページ]   第一章 平穏から破滅へ続く道筋 Battle_of_Collapse.  1  本日の四時間目はとある事情で異様に長引いた。  平凡な高校生・上条当麻を含むクラスの面子が購買や食堂へ走った時には、すでに後の祭り。完璧に出遅れたために購買のパンは全て消滅し、食堂の席も埋め尽くされ、昼休みが終わるまで空く様子もない。トドメに食券販売機は、真夜中の煙草《タバコ》の自販機みたいに軒並み売り切れランプが点灯中。なんという不幸。この状況も上条当麻が歴史教師に放った一言『へー。じゃあもしも織由信長《おだのぶなが》が織田幕府を作っていたら日本はどうなってたんですか?』によって全てが脱線してしまったせいである。  責任を感じた上条が職員室へ直訴に赴き、ヘルシーさるそばセット五八〇円を頬張《ほおば》っていた小萌先生に『何なら調理実習室を開放してください! 上条定食を開きますから!! 余り物の冷たいご飯と粉チーズとケチャップであら不思議!!』と懇願《こんがん》するも、先生は苦笑するばかりで応じてくれず。おまけにすぐ近くでウニとイクラのゴージャス海鮮丼《かいせんどん》をガッツリ食べている数学教師・親船素甘や、もはやご飯とはあんまり関係なさそうな肉まんを多数消費している体育教師・黄泉川愛穂《よみかわあいほ》のせいで、職員室は無駄《むだ》に美味《おい》しそうな匂いだけが充満し、上条は自分を見失う前に職員室から逃げ帰る事になったのだ。 「の、残された道はジュースの自販機か……。しかしそれで午後の授業に耐えられるのか……」  食糧難にあえぐのは上条当麻を始め青髪ピアスや土御門元春《つちみかどもとはる》、この日に限って弁当を作り忘れた姫神秋抄《ひめがみあいさ》や通販の健康食品が品切れ中の吹寄制理《ふきよせせいり》などを含めた食堂&購買組、男女合わせて二一名。  ここぞとばかりに弁当組がものすごく美味しそうに小さなハンバーグやシューマイなどをもったいぶって頬張る中、彼ら空腹同盟は遂《つい》に決意する。 「脱走だ!! 脱走してコンビニへ行くんだ!!」  一体誰が叫んだのか。  気がつけば食堂&購買組の男女が円陣を組んで作戦会議を実行する。  こういう時、やはり力を発揮するのは吹寄制理だ。 「全員が一斉に学校の外に出れば、流石に先生達に気づかれるわ。実働部隊は三、四人に的を絞って、彼らに全員分のお金を渡してまとめ買いしてもらう方が成功率は高いのよ!!」 「じゃあ。他の人はどうすれば?」  首を傾《かし》げる姫神《ひめがみ》に、上条《かみじょう》は手を挙げて言う。 「情報をゲットしたり陽動してもらったりと、バックアップに徹《てっ》してもらうって事だろ。とにかくこの作戦は先生に見つからないようにしないといけない。だからお前達の協力が必要なんだ。ケータイは繋《つな》ぎっ放しにしておけ。情報は最新のものでなければ意味がない」 「よし、どこから脱走するかだけどにゃー」  土御門《つちみかど》はいらなくなったプリントの裏に、詳細な校内見取り図を描き上げると、 「これが不審者対策の警報関係の位置。こっちの赤外線センサーは夜間だけだから気にしなくて良い。で、職員室の位置関係を考えると……正面から出ていけばフェンス周辺で即バレする。窓から校庭全体が丸見えだからにゃー。やっぱり基本は裏口からだぜい。ただ、購買のおじさんなども出入りするから、そことぶつかるとすごく厄介《やっかい》だにゃー」 「なるほど ポイントは裏口を通るタイミングね。よし、じゃあ役割分担決めちゃうわよ!!」  吹寄の指示で三人の反逆者達がいくつかのグループに分けられる。上条当麻、音髪ピアス、土御門|元春《もとはる》、吹寄制理の四人が実際に脱走する実働部隊だ。どうやらいつものバカ騒《さわ》ぎっぷりによって、機敏さを評価されたらしい。 「……でも上条って不幸だけど昼飯任せて大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」 「……大丈夫。あいつにはオトリという重要な役割がある」  ボソボソ言うクラスメイト達に上条はゲンコツを振り上げて黙《だま》らせる。  彼ら全員は円陣を組んだまま携帯電話を取り出し、複数の回線を同時に繋げられるトランシーバーモードに設定し、さらにデンタル時計を秒単位で合わせると、 「———行くわよ。作戦開始《ミッションスタート》!!」  パンパン! と吹寄が両手を二回叩《たた》くと、食堂&購買組が蜘蛛の子を散らすようにバラバラに分かれていく。  上条、青髪ピアス、土御門、吹寄の四人は急ぎつつも、『廊下を走っているのを見咎《みとが》められる』というイージーミスを防ぐため、『早歩きに見えなくもない動作』で廊下を突き進む。 「この作戦は時間が勝負よ」  数人の教師を笑顔でやり過ごしつつ、上条の隣を早歩きする吹寄はそう言った。 「お昼のコンビニと言えば圧倒的な稼《かせ》ぎ時。せっかく外に出られたとしても、コンビニの棚からお弁当が消えていれば元も子もないわ!!」  下駄箱へは行かない。革靴と上履きが入れ替わっている事を発見されれば、外出しているのがバレてしまう。靴がないのに校庭で遊んでもいない……というのは割と致命的なのだ。  なので、一旦《いったん》別れて別行動していた仲間達から体育用の運動靴をゲットすると、代わりに上《うわ》履《ば》きを預ける。校舎から体育館へ繋《つな》がる『外にある通路』まで行くと、運動靴を履《は》いて一気に外へ。後は誰《だれ》かに見咎《みとが》められる前にそのまま校舎の裏へ走る。  金属製のフェンスが見えた。  辺りには誰もいない。ネックとなっていた購買のおじさんも見当たらない。 「ようし! このまま一気に脱走するぞ!!」  上条《かみじょう》は勢い込んでフェンスを乗り越えようとする。  その時だった。  ブッブー、というけたたましいクラクションの音。  振り返れば、そちらには今ファミレスで外食してきた所ですと言わんはかりの災誤先生《ゴリラ》が。  生活指導が乗っているのはファミリー用の4ドアだが、あれは人間様のために作られたものであって、無差別級のゴリラが乗ると公衆電話みたいに窮屈《きゅうくつ》に見える。 「チッ!! 教職員の車両用出入りにも裏口が使われる可能性を考慮すべきだったわ!!」 吹寄が己の失策に後悔するが、上条が感じたのはそれとは別だ。  彼はただ思った事をそのまま叫ぶ。 「卑怯《ひきょう》だーっ!! よりにもよって外食かよ!? あの生活指導の筋肉猛獣、俺達にはあんなキャパ不足の食堂で骨肉の争いをさせておいて、自分だけくつろぎ空間満喫済みーっ!!」 「ば、馬鹿やん。相手にすんな! ここで捕まったらみんなのお昼はどうなるんや!!」  青髪ピアスの叫びで上条はハッとする。  車を降りて、猛スピードで迫り来るゴリラ教師・災誤《さいご》先生から逃れるため、上条は金属のフェンスを乗り越えて外へ。吹寄は形勢の不利を感じていち早く別ルートへ逃走を開始し、土御《つちみ》門《かど》は捕まりそうになった所で青髪ピアスをフェンスから蹴り落としてミサイル回避《かいひ》用のフレアに捧げた。  尊い犠牲を無駄にしないため、上条と土御門は敷地外の道路を全力疾走する。  土御門は走りながら、後ろを振り返ってギョッとした。 「おのれあのゴリラ教師、青髪ピアスを締め落としてこっちに走ってきたにゃーっ!!」 「マジでか!? 土御門、とにかく二手に分かれよう! ここで全滅する訳にはいかんのだよ!!」  上条と土御門は頷《うなず》き合うと、生き残る可能性を高めるために、十字路をそれぞれ左右へ突き進む。      2  天草式十字凄教に所属している少女・五和《いつわ》は上条の高校の近くにいた。  ふわふわした羊みたいなトレーナーの上からピンク色のタンクトップを着ていて、下は濃い色のパンツ……なのだが、パンツは巻きつくような切り込みが入っていて、布地がめくれないように透明なビニール素材を合わせてある、脚の肌色が大胆に覗くように作られた学園都市最新のデザインだ。住民の八割が学生という稀有なこの街の中でも溶け込めるよう細心の注意を払った衣服の選び方だった。ビジネス街ならスーツだし、繁華街ならミニスカート。これは五和だけでなく、天草式全体のセンスだった。  五和が学園都市にいるのには理由がある。  今から二日前、イギリス清教と学園都市の上層部へ、それぞれ同じ書面の手紙が届いていた。差出人はローマ正教最暗部『神の右席』の一人、後方のアックア。その内容は、これより上条当麻の粉砕に赴《おもむ》く。止める気であれば全力で臨むようにされたし……という、一種の果たし状だった。  もちろん偽物《にせもの》という可能性もある。  しかしイギリス清教に送られた手紙には、学園都市に送られたものとは違って、信憑性《しんぴょうせい》を補足するために、とある別の物品も送付されていた。  すなわち、左方のテッラの遺体。 『それ』は最高級のビロードに優しく包まれた上で、ほのかに木の香りの漂う桐の箱に詰められて郵送されてきた。まるで宝石箱のように豪奢《ごうしゃ》な飾りに込められたのは、敵対者に向けた嘲弄か……あるいは敬意の表れか。  腰の辺りで寸断された上半身は、確かに『神の右席』の一員だった。  テッラと直接|戦闘《せんとう》した五和は遺体の確認のために聖ジョージ大聖堂に呼び出され……そして、そこで困惑する。  原因は二つ。 一つ目は、テッラは学園都市製の兵器によって、アビニョンで焼き尽くされたはずだが、遺体の死因は明らかに腰の切断面にある。  二つ目は、その学園都市製の兵器すら凌《しの》いでいたテッラを、こうも軽々と処刑してしまった『後方のアックア』の実力について。  一撃必殺。  切断された傷口が語るのは、ただその一言。  左方のテッラの力を、じかに戦った五和《いつわ》は知っている。彼女達をさんざんに苦しめ、学園都市が放った大部隊さえも正面突破した『神の右席』左方のテッラの最期《さいご》は———体を強引に引き千切《ちぎ》られる、という凄惨極《せいさんきわ》まりないものだった。  さらに、疑問もある。  これまでの『神の右席』に見られた搦《から》め手《て》の戦術を使わず、何故古風な果たし状を出したのか。  その果たし状の材料として使われた左方のテッラは、何故アックアの手で殺されたのか。  あまりにもストレートすぎる後方のアックアのやり方は様々な憶測を呼び、イギリス清教と学園都市は罠《わな》の可能性も勘繰《かんぐ》ったが、しかしアックアの真意は掴《つか》めずじまいだ。ともあれ上《かみ》条当麻《じょうとうま》を狙《ねら》ってやってくるというのなら、ここで叩いておくのが最良だと判断したらしい。イギリス清教側から、天草式十字凄教が派遣される事になった。  学園都市内部における、魔術師《まじゅつし》の集団行動は、本来なら禁じられている。  魔術サイドと科学サイドのラインを割る行為だと定義づけられているからだ。  しかし今回、例外的にその協定は破られた。  五和に詳細は分からないが、おそらくイギリス清教の最大主教《アークビジョップ》と学園都市のトップの間で、何らかのやり取りがあったのだろう。  イギリス清教としては、天草式という独立した傘下《さんか》の小組織なら都会が悪くなった際にトカゲの尻尾切りするにはちょうど良いと考えたのかもしれないしあるいは元々日本国内で活動していた事から、地の利に優《すぐ》れていると判断された可能性もある。  ともあれ、本来いるべきではない五和は、現在この学園都市にいる。  それは世界が『学園都市・イギリス清教』組と『ローマ正教・ロシア成教』組に分かれ始めているからでもあるし……何より、後方のアックアというあまりにも巨大な爆弾は、ルールを守るだけで倒せる相手ではないからでもある。  逆に言えば、『科学と魔術のラインを割る事が生むであろう世界的混乱』よりも、『アックア一人が攻め込んでくる』方が脅威《きょうい》だと、学園都市とイギリス清教の双方から受け止められた、という訳だ。後方のアックアとは、そのレベルに達する強敵なのだ。 「……、」  そういう事情があり、上条の護衛役として、五和の参戦も決定した。  と同時に、早急に上条と接触しなければならないものの、そこそこ常識と良識を持っている五和は、流石に授業中の学校へ乗り込むような真似はしなかった。今は上条のクラスが良く見える位置で待機し、放課後になってから実行する予定だった。 (……頑張らないと)  むん、と小さな拳に力をこめて、密《ひそ》かにやる気な五和。  実は数日前のC文書の件では、力量不足のために最後まで上条を守り抜く事ができなかったのだ。その事実を払拭《ふつしょく》するためにも、今回こそプロの魔術師として民間人・上条当麻には指一本触れさせない覚悟を決めたりしていた。  彼女は肩に提げたバッグと、その中に分解して収めた海軍用船上槍《フリウリスピア》の重さを確かめつつ、 (あの人は前方のヴェント、左方のテッラと、すでに二人もの『神の右席』を撃退《げきたい》しているという話ですけど。でも、私にもできる事はあるはず。だから頑張らないと)  と、その時。  五和《いつわ》の目の前を、見知った人物が勢い良く横切っていった。 件の上条当麻だ。 「え?」  どうして? と五和は首をひねって、時間を確認する。どう考えても、まだ下校時間ではない。しかも街を走る上条は尋常ではない表情だった。まるで何かに追われているようだった。  何かあったのかもしれない。  わずかに緊張《きんちょう》する五和の目に、  何やらゴリラのような怪人が上条を追って五和の前を横切るのが見えた。  なんというか、その、アクの強い洋ゲーに出てくる悪党《ポリゴン》みたいな顔の怪人だった。  五和は上条の事を考え、洋ゲーの顔を思い浮かべ、もう一度上条の逃げ足を確認する。  あんなの《ゴリラ》がまともな一般人であるはずがない。  百戦|錬磨《れんま》の猛者《もさ》・上条当麻の表情は恐怖でいっぱいだった。  もぎ取られる、と顔に書いてあるように見えた。  やがて、彼女はこう判断した。  九月三〇日の報告書によると、どうやら後方のアックアは男性であるらしい。 (———さっそく現れたッッッ!!)  五和は迅速《じんそく》に槍《やり》を組み立てると、そのまま一気に洋ゲーへ突撃していく。      3  健康上の都合により、生活指導の災誤《さいご》先生は早退されました。 「……うはあ」  放課後、何とかお昼ご飯大作戦をコンプリートした上条はちょっと重たい息を吐くと、下駄《げた》箱で下履《したば》き用のバッシュに履き替えて校門を出た。と、そこには今も顔を真っ青にしている五和が佇《たたず》んでいる。  昼休みに何故か突然現れ、鬼の形相で生活指導へ強烈なタックルをぶちかました五和(槍つき)だったが、何やら彼女なりの早とちりだったらしく、『あれ、後方のアックアじゃ、ない? ええ、学校の先生!? こっ、この顔で教師なんですか!?』とあたふたしていた。  何で五和が学園都市にやってきているのか、その辺も含めて色々話をしなくてはまずそうだったのだが、五和は目を回しているゴリラ教師を介抱するため、災誤《さいご》先生の巨体を担《かつ》いで病院へ高速移動してしまった。  そうして現在に至る。 「わ、私ったら……役立たずにもほどがあります……」  どーん、と病院から戻ってきた五和は真っ暗に落ち込んでいる。  上条《かみじょう》としては、あのゴリラ教師に捕まったら最後、ウルトラ破壊力を誇る古武術の投げ技でアスファルトへ叩きつけられて汗臭《あせくさ》い寝技のコンボに持ち込まれたに決まっているので、役に立つたか立たなかったかで言えば断然役に立ったのだが、どうも五和の落ち込みポイントはそこではないらしい。 (……一般人を傷つけたかつけなかったか、という所も あれだよなあ。落石注意ゾーンで襲《おそ》いかかる岩盤を両手で受け止めた伝説を持つゴリラが一般なのかどうかはすこく疑問な所だ)  ともあれ上条は、魔術《まじゅつ》サイドの住人である五和が、何で科学サイドの本拠地・学園都市にいるのかを聞いてみる事にする。 「……後方のアックア、という名前は覚えているでしょうか?」  恐る恐る、としう感じで五和はそう言った。  上条の眉《まゆ》が不審げに動く。 「確か、『神の右席』の一人……だよな。九月三〇日に会った事はあるけど」  そう、学際都市で前方のヴェントを倒した際、そこへ横槍《よこやり》を入れたのが後方のアックアだ。 『神の右席』の一員でありながら、同時に『聖人』としての資質をも兼ね備えているという人物。具体的な戦闘《せんとう》能力は想像もつかないが、これまでの敵とは格が違う事ぐらいは分かる。 どこに向かうでもなく何となく繁華街の方へ足を向けながら、上条は話しかける。 「その、アックアがどうしたって言うんだ? まさか、またどっかの外国の街で、妙な事を始めようとしているのか」 「い、いえ、そうではなくて……」  五和はものすごく言い辛《づら》そうに、何度か頭の中で言葉を考えるようにして、やがて言った。 「後方のアックアの狙《ねら》いは、あなたにあるようなんです」 「は?」 「ええと、イギリス清教と学園都市の双方に、後方のアックアから果たし状が届いているんです。そこには、数日内に上条当麻を……うーん、襲撃《しゅうげき》するから用心しろ、と」  五和は困ったように、言葉の端々《はしばし》を途切れさせる。まるで親が子供にするように、刺激の強い部分をごまかして説明しようとしているようだった。 『神の右席』や後方のアツクアに命を狙われる……という事の重大さに、いまいちピンと来ない平凡な高校生、上条当麻《かみじょうとうま》は訝《いぶか》る。 「『神の右席』、か」  上条は少し考え、 「前方のヴェントの話だと、わざわざ俺《おれ》一人を殺すためにローマ教皇に書類を作らせたり、学園都市を襲ったりしていたみたいだけと。何でまた、ただの高校生一人のためにそんなバカ高い出費を覚悟で襲ってくるんだろうな」 「ひっ!? いえいえいえいえ!! それはあなたがこれまで数々の人を助けたりローマ正教暗部の企みを次々と阻止したり色々してきた訳でしてつまり何が言いたいかと言いますともうただの高校生どころの話じゃ」  五和《いつわ》は何か慌てて叫んだが、良く分かんないけと多分彼女は天草式《あまくさしき》補正で自分を眺めてくれているのだろう、と上条は適当に結論付けた。おだてられるとくすぐったいが、こっちは正真正銘《しんしょうめい》ただの高校生である。褒めたって何も出ないのだ。 「しっかし、前方、左方と来て、今度は後方のアックアか」 「今、英国図書館の方で彼の身元を洗っていますが、今の所、他《ほか》の『神の右席』のメンバーの情報も含めて、それらしいものは何も出ていないみたいなんです」 「まあ、秘密組織の秘密メンバーだもんな」 「詳細を掴《つか》めない『神の右席』としての力はもちろん、『聖人』としての力もあるようですから。女教皇様《プリエステス》の協力を仰げれぱ良かったんですけど」  女教皇様と言うのは神裂火織の事だ。  彼女もまた世界で二〇人といない『聖人』の一人で、かつては本物の天使と戦って生き残った戦績を誇る。  確かに神裂の協力があれば心強いが、色々な事情があって、今の天草式と神裂の間には溝がある。その上、ステイル辺りから聞いた話によると、聖人というのは莫大《ばくだい》な力を持つが故《ゆえ》に、自由にあちこち動いて良い訳でもないそうだ。 「……でも、私達にも策がない訳じゃないんです」  五和は不安を拭《ぬぐ》うように言った。 「『神の右席』は魔術サイドでは絶大な力を持つ集団で、正直、私達がまともに戦っても太刀打ちできるかどうかは保証できません。でも、前方のヴェント、左方のテッラ……これらの二人は現に退ける事に成功しています。それは何故《なぜ》か」 「ふんふん」 「詳しく分析した訳ではないので確定した情報と言いきれないのですが、双方に共通しているのは、『科学サイドから大規模な介入があった事』なんです。左方のテッラの時は駆動鎧《パワードスーツ》と超音速爆撃機が計画を変更させましたし、前方のヴェントの時は……ええと……天使のようなものが見えたとか?」  言われてみればそんな気もする。  魔術《まじゅつ》サイドでは屈指の力を持つ『神の右席』を揺るがしたのは、いつでも科学サイドからのイレギュラーな反撃《はんげき》だった。最強の座を得た完璧《かんぺき》な舞台で戦うのではなく、不得手な科学サイドの舞台へ引きずり上げて戦わせる事が、勝利への鍵となるのかもしれない。 「となると、そこらじゅう科学だらけな学園都市の中で戦う事に大きな意味があるって訳だな」 「……わ、私は、それだけじゃないと思いますけど……」 「?」  ごにょごにょ言う五和《いつわ》に上条《かみじょう》が首を傾《かし》げると、彼女は慌てて両手を振ってごまかした。 「とっ、ともかく! 後方のアックアが襲《おそ》ってきたとしても、私が必ず守ってみせます。私達も表から陰から全部ひっくるめて護衛に当たるというのがイギリス清教からの命令ですから、どうぞご心配なくっ!!」  元気いっぱいに言われてしまった訳だが、ちょっと今のは聞き捨てならない。  聞き間違いかとも思ったので、念のため確認してみる。 「で、五和は何しに来たの?」 「決まっています。護衛に来たんですよ」  むん、と小さな拳《こぶし》を握り締《し》める五和に、上条はパチパチと瞬《まばた》きをした。  もう一度尋ねてみる。 「で、五和は何しに来たの?」 「だから護衛に来たんですよ。泊まり込みで」      4  天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきょう》教皇代理・建宮斎字《たてみやさいじ》は物陰に隠れたまま、双眼鏡から目を離した。 彼らがいるのは小さな映画館のすぐ傍だ。近くには細い横道があり、さらに横道の入口を視界から遮《さえぎ》るように、宝くじの売店が設置されている。人混みの中にあるのに人の目に入りにくい、奇妙なポイントだった。  双眼鏡片手に渋い顔で目を細めたまま、建宮は静かに語る。 「……つまらんのよ」  その言葉に、彼の隣で雑誌を読んでいるふりをしている大男、牛深《うしぶか》も頷《うなず》いた。 「五和の野郎……さっきから業務連絡ばかりで、ちっともアタックしませんね」 「まったくよな。せっかく上条当麻にゼロ距離攻撃できるチャンスを与えてやったというのに、アピールを開始しないどころか、あいつ、自分の武器にも気づいていないと見えるのよ」 「なんすか五和の武器って?」  ポップコーンをもりもり食へている小柄な少年、香焼《こうやぎ》が尋ねると、建宮は傍《かたわ》らに置いたバッグをゴソゴソと漁り、まるでクイズ番組の解答者みたいなフリップボードを取り出して、黒のマジックをキュキュキューッと走らせる。  彼は正解の書かれたフリップボードをドン!! と提示すると、 「———そう、それは『五和《いつわ》隠れ巨乳説』ッッッ!!」  クワァ!! と建宮《たてみや》が両目を見開いて宣言すると、牛深《うしぶか》や香焼《こうやぎ》だけではなく、周囲にまんべんなく展開していた初老の諌早《いさはや》や既婚者の野母崎《のもざき》といった男衆までもが、ガタガタッ!! と建宮に食いついてくる。 「そっ、その仮説には根拠があるんすか教皇代理!?」 「そんな事を言って……また競馬の予想みたいに適当な事を言ったら承知せんぞ貴様!!」  鼻息荒げる男衆に、建宮はさらにフリップポードへ黒マジックを走らせ、 「以前この俺《おれ》が実行した五和マッサージ大作戦で得た調査結果によると、彼女の肩こり指数は四〇。しかし五和の筋力や運動量を考慮した上で、彼女の衣服・装備・持ち物の総量を足して計算しても、本来ならば肩こり指数は最大でも三七でなければおかしいのよ」 「それはつまり……」  ゴクリと息を呑《の》む一同。  建宮は厳《おごそ》かに頷《うなず》くと、腹の底から力を溜めて、声高に宣言する。 「そう。この肩こり指数の差『三』こそが、五和隠れ巨乳説を証明しているのよッ!!」  ドバーン!! と驚愕《きょうがく》の事実が書き加えられたフリップボードを突きつけられて腰を抜かす牛深・香焼。初老の諌早が孫の成長を喜ぶように小さくガッツポーズを取る一方で、野母崎は乳は小さい方が良かったのか、肩を落として悔しがっている。  そんな中、少し離れた所に立っていたふわふわ金髪の女性、対馬が馬鹿にしたような息を吐いた。 「……くだらない事言ってないで、護衛対象のマークに集中しなさいよ」  すると、水を差された建宮達男衆は、長身に反比例して胸は控え目な対馬の体を、頭の上から爪先《つまさき》の下までじっくり眺めた後に、 「対馬先輩って、どっちつかずで需要が少なそうすよね」 「なっ!?」 「如何にも。せめて胸はデカくて背も高いか、胸は小さくて背も低いか、だったら良かったものを。対馬はキャラ付けが固定されておらん。それで一体どうしろと言うのだ」  口をパクパクさせている対馬の横で、建宮は新しいフリップボードを取り出し、黒マジックを走らせると、 「チッチッ。お前さん達にはこれが分からんのよ。———『対馬脚線美説』!!」  何か得体《えたい》の知れない事を説明しかけた教皇代理の股間《こかん》を蹴《け》り上げて黙《だま》らせる対馬。  男衆は対馬にあんまり興味がないのか、そちらを放っておいて五和に注目する。 「でも、このままでいいんすか? 五和《いつわ》の野郎……まだおしぼり作戦続けるみたいすよ」 「確かに五和は奥手すぎる。これでは埒が明かんな……」 歯噛《はが》みする初老の諌早《いさはや》。そこへ妙に涙目の建宮が、再び会話の主導権をもぎ取った。 「そう、五和特大オレンジ説を最大限に発揮するためには、このままではいかんのよ」 「え……特大オレンジですか!? せいぜいリンゴぐらいだと思っていたのに!!」  あわわとうろたえる牛深《うしぶか》をよそに、香焼《こうやぎ》は疑わしそうに尋ねる。 「でも教皇代理。これって外野がわーわー言ってどうにかなる問題なんすか? 五和の奥手っぷりは筋金入りすよ」 「ふっ。だからこそ秘策を用意したってのよ」  ニヤリと笑いながら、建宮が素敵なバッグから取り出したのは、 「サッカーボール?」 「このフィールドの狙撃手《そげきしゅ》・建宮斎字がフリーキック大作戦を提案するのよな」      5  御坂美琴《みさかみこと》の頭はモヤモヤしたものでいっぱいだった。  上条当麻《かみじょうとうま》に関する『ある事柄』を知って以来、ずっとこうだった。どれだけ考えても解決しない。時間が経っても解決しない。まるで答えのない問題を解けと言われたように、いつまでもいつまでも思考は空転を続けるばかりだった。 (やっぱり、あれは嘘なんかじゃない)  ある事柄。  すなわち———記隠喪失《きおくそうしつ》。  たった数文字の単語に、美琴の心は大きく揺らぐ。 (でも、一体いつから……?)  九月三〇日に携帯電話のペア契約をした時は……違和感はなかった。大覇星祭《だいはせいさい》の時も目に見える変化はなかったと思う。八月三一日はどうだっただろうか。そして、妹達《シスターズ》や一方通行《アクセラレータ》と関《かか》わったあの時は? 「……、」  線引きができない。  こうして考えてみると、あの少年は身近な場所にいるように見えて、実は良く分からない所がかなり多かった。 (私が悩んだ所で仕方のない問題だってのは、分かってる……)  それはいつから陥《おちい》っている事なのか。との程度の記憶を失っているのか。生活に支障はないのか。きちんと医師に看てもらっているのか。治る見込みは本当にないのか。  そして。  自分との思い出は、どこからどこまで消えているのか。 (知り合いの精神系能力者に相談するって選択肢もあるんだけど)  常盤台《ときわだい》中学には、美琴《みこと》の他《ほか》にもう一人、第五位の超能力者《レベル5》がいる。精神系では学園都市最高———つまり史上最強の『|心理掌握《メンタルアウト》』。記憶《きおく》の読心・人格の洗脳・離れた相手との念話・想いの消去・意志の増幅・思考の再現・感情の移植……ありとあらゆる精神的現象を一手にこなす、十徳《じっとく》ナイフのような超能力者《レペル5》が。 「でもあいつは苦手なのよねぇ……」  思わず考えていた事を口に出してしまった。  それくらい美琴は『あの』超能力者《レヘル5》が苦手だという事だ。  何しろ特定の組織、集団、派閥に属さない美琴と違い、常盤台中学最大派閥の女王サマとして君臨している、という時点で馬が合わない。こんな事で相談すれば間違いなく『借り』となってしまうだろうし……最悪、治療と称してあの馬鹿《ばか》の精神にいらない細工をされる危険もある。有り体に言えば、知り合いの体を任せられるほど信頼《しんらい》できないのだ。  そっちの案は考えるべきではない。  美琴はもう二人の超能力者《レベル5》の存在を、とりあえず頭から追い払う。 (これはあの馬鹿自身の問題だってのも、分かってる。でも、だからって何も思わないなんて事はできない。私はそこまで、何でもかんでも割り切れる人間じゃない)  何故《なぜ》相談してくれなかったのか。気づかないふりなしておいた方が良いのか。その辺りも含めて、もう歯噛《はが》みするしかない。何しろ、当の上条当麻《かみじょうとうま》本人は美琴がこの事実に気づいている事を知らないみたいだし、そうであって欲しいとも考えているらしいのだ。下手《へた》に問い詰めて強引に相談に乗る……という方法も、この場合では相手を傷つけるだけの可能性もある。  どうすれば良いのか。  どうにかできるような問題なのか。 (だぁーっ!! くそ、そもそも何で私があの馬鹿の事でこんなに頭を悩ませなくちやならないのよ! なんか下手に焦《あせ》って頭が回らなくなってるし、そのせいで余計に焦りまくってるし。一度全部リフレッシュして考え直した方が良いのかしら)  とはいえ、そう簡単に思考を切り替えられれば苦労はしない。  そんな感じで、美琴が重たい息を吐いた時だった。 「……?」  ふと街の片隅にある小さな映画館の近くで、こそこそ動いている人影を発見した。  クワガタみたいに光沢のある黒髪の大男はアスファルトの地面にサッカーボールを置き、傍《かたわ》らの数人と頷《うなず》き会って、二歩、三歩と短い助走をつけると、そのまま思い切りフリーキックを放つ。  ポーン、と大きく蹴り飛ばされたサッカーボールはギュルギュルと横回転しており、そのスピンによって鋭い弧を描いた。公式試合なら、DFの壁を避けた後、真横からゴールへ突き刺さりそうな勢いだ。  街中で何をやっているんだ? と美琴《みこと》は自然とサッカーボールの行き先に目をやって、  そこでギョッと身を固めた。  バコン!! という良い音と共に、上条当麻《かみじょうとうま》の側頭部にボールが激突する。  しかもその勢いに押され、上条の頭が隣を歩いていた少女の胸の谷間へと突っ込んだ。  結構な威力だったらしく、上条は少女の胸にめり込んだまま気を失っている。少女の方はどう対応して良いのか困っているようで、顔を真っ赤にしながら、とりあえずボールの当たった辺りを小さな|掌《てのひら》で撫《な》でたりしていた。その仕草が、どうにも上条の頭をギュッと受け入れているように見えてしまうのは錯覚《さっかく》か。  あまりの事態にロをパクパクと開閉させる美琴の耳に、いえーい、という声が聞こえる。そちらに目をやると、道端《みちばた》でいきなりフリーキックを始めたクワガタや若者達が喜び合ってハイタッチしている。  パチパチ、という火花の散る音が聞こえた。  それが、自分の出している高圧電流の音だと気づく前に、美琴《みこと》が爆発した。 「人が色々抱えて困ってるってのに……変なモンを追加でゴロゴロ押し付けてんじゃないわよアンタらーっ!!」  前髪から雷撃《らいげき》の槍《やり》をズバンズバン!! と連続で射出すると、それに気づいたクワガタ達《たち》は四方八方へ散らばって、あっという間に消えてしまった。カメレオンみたいに人混みの中に紛《まぎ》れ、どちらを見回しても一人も発見できない。  ??? と美琴は首を傾《かし》げる。  しかし、標的を見失ったからと言って、それで美琴の怒りが収まる訳ではない。  何より、全《すべ》ての元凶たるツンツン頭の少年は、なんだかんだで未《いま》だに少女の胸にめり込みっ放しだ。しかも『うっ、ううん……』とか何とか言いながら、寝ぼけて少女の膨《ふく》らみをわし掴《づか》みだ。 「あの馬鹿《ばか》……いつまで母性の塊《かたまり》に甘えているのよーっ!!」  美琴は叫び、直接裁きを下すべく上条《かみじょう》の元へと突っ走る。      6  さんざんな一日だった。  上条当麻は重たい息を吐《は》く。道端《みちばた》で唐突に襲《おそ》ってきたフリーキック、さらに追い打ちをかけるようにやってきた美琴の電撃。護衛としての任務をまっとうするとして槍を組み立て始めた五和《いつわ》を羽交《はが》い絞《じ》めにし、何故《なぜ》か五和と密着した事に腹を立てた美琴から逃げるために学園都市中を走り回った。これだけ運動すればメタボリックな心配をする必要はないだろうというくらいの走行距離だ。  そして上条当麻の前には、さらに新たな問題が立ち塞がる。  そう、ここからが本番なのだ。 「……で、とうま。何で天草式《あまくさしき》のいつわが隣にいるの?」  本日最大のテンジャラスチェックポイント。  学生寮のドアを開けるなり、インデックスが放った一言に上条の全身から脂汗が出る。噛《か》み付き準備完了いつでも行けますとばかりにうっすらと歯が覗《のぞ》いているのがすごく怖い。  ちなみにいつもインデックスと一緒《いっしょ》にこいる三毛猫《みけねこ》は、五和の周りをくるくる回って、『誰《だれ》この人。だれー?』と鼻をひくつかせて匂《にお》いを嗅《か》いでいる。  上条は噴き出る汗を拭《ふ》きながら、 「い、いや、それは、ええとですね、なんて説明したら良いのかなー……?」  と、彼の隣にいた五和がキョトンとした顔で、 「つまりですね、『神の右席』の———」 「でぇやあ!!」  上条《かみじょう》は突然大きな声を出すと、五和《いつわ》の首筋にチョップ。ビクゥ!! と言葉を詰まらせた彼女の後ろから上条は腕を伸ばして首に巻きつかせると、インデックスから急速に離《はな》れて内緒話《ないしょばなし》を実行。 「(……いっつーわサン!! あのええとインデックスには黙《だま》っておいてはいただけないでしょぅか!!)」 「わっわっ」 「(……アックアの狙《ねら》いはどうやら俺だけみたいだし、インデックスに矛先が向かないならそれは良い事だと思うんだっ! だから余計な事を言ってインデックスを変な所へ近づけさせるのはやめようそうしよう、ねっねっ!?)」 「わわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわっ!?」 「(……五和、人の話聞いている?)」 「きっ、聞いていますですよ!! ばばばばばっバッチリでぇす!!」 何故か顔が真っ赤になったまま首をブンブンと縦に振りまくる五和。  苦しかったかな? と上条は五和の肩から首にかけて回していた腕を取ったのだが、するとどことなく残念そうな表情になるのが謎《なぞ》である。  と、 「……、」  いつの間にかインデックスが完全無感情。大きく爆発する事すらなく『……いいもん』と口の中で呟き、ごろんと向きを変えてテレビの方へ顔を向けてしまったのが本気で気まずい。あれはマジだ。『もうっばかばか、とうまのばか!!』レベルではない。時折、クラスメイトの姫《ひめ》神《がみ》がまとっているどんよりしたオーラみたいなのが見える。何故こうなった。というかインデックスは一体何に怒っているのだ。上条は左右にガタガタと震《ふる》えた後、やがて静かに土下座《どげざ》を決行し、インデックスの背中に向かって頭を差し出す形で、「……その、何だか良く分かりませんが、完壁《かんぺき》に爆発する前に、いっそ噛《か》んでくれませぬか? 少しずつ怒りパワーを分散していけば、上条さんの頭蓋骨《ずがいこつ》は噛み砕かれずに済むと思うのです」  身動きのない二人に五和はオロオロとするものの、護衛を辞退しないのは使命感の表れか。割と行き場を失った調子で視線をさまよわせると、匂《にお》いの確認が終わった三毛猫《みけねこ》と目が会った。 「そ、そうだ。猫ちゃんにはお土産《みやげ》があるんですよー?」  場を和《なご》ますというよりは居心地の悪い会話の輪から逃れるように、五和は大きなバッグをコソコソと探った(おや? 彼女は上条宅で三毛猫を飼っている事は知らないはずなのだが……?)。『猫のお食事会・三ツ星プラチナランク』と側面に描かれた超高級な金色の缶詰を取り出すや否《いな》や、三毛猫の全身がバキィン!! と固まった。目をまん丸に見開き、背筋を正す。バコッと開いた缶詰を五和から差し出されても、三毛猫は『ねっ、猫ですけど。こんなブルジョワつぽいものを食べでも良いんですかにゃーっ!?』と何やら恐れおののいている。  と、大好評土下座中の上条は、五和のバッグの中からスーパーの袋らしきものが覗いているのを発見する。 「……何故《なぜ》、五和のバッグの中に肉や野菜が? 天草式《あまくさしき》マル秘サンマ魔術《まじゅつ》に使うとか?」 「いっ、いえいえ。今は断食《だんじき》などの食事制限を行う必要はありませんから」  話を振られて五和は顔の前でパタパタと手を振った。 「ついでなので近くのスーパーで食材を調達しておいたんです。その、簡単なものなら作れますから。いくら警護のためとはいえ、ただ居候するのは気が引けますし。家事の方は任せてください。手伝える事なら何でもお手伝いしますよ」  その瞬間《しゅんかん》、上条は何を言われたか理解できなかった。  数秒の空白を用いてようやく五和の殊勝コメントの意味を解すると、今度は無言のまま首だけを動かしてインデックスを見る。 「なっ、なに、とうま。何で空気の流れが一変しているの?」 「自分の胸に聞いて御覧なさい。上条さんに全部任せきりで、今までお手伝いしてこなかったのは誰《だれ》ですか?」 「う、うん。それはごめんだけど。……? あ! そんな事を言って無理矢理に逆転しょうとしている気じゃ……ッ!?」  インデックスは上条の企みを看破しかけたが、もはや一度動いてしまった流れは変わらない。上条はいかにも自然体な感じで台所スペースへ顔を向け、『えーとお鍋《なべ》の場所とか教えた方が良いか?』『あ、はい。お願いします』などと言葉を交わし白い修道女を意識から外し、もう『何故《なぜ》こんな事になっているのか』『いつもいつもどういうつもりなのか』などという一番初めにあった命題を丸ごと心のゴミ箱へ投げ捨てた。 (だって、何で五和がこんなにやる気なのか俺《おれ》自身にも分からないもん! 分からないものに説明なんてできないもん! い、いや、今はとにかく五和サンクスと言うだけだ! ふははーつ!! 噛み付きなしでインデックスの追及を逃れるなんてこれは快挙じゃゴキュ)  勝利の余韻《よいん》に浸りかけた所で、結局イライラしたインデックスに後頭部を噛み付かれて転げ回る上条。その拍子にゴージャスな猫の缶詰の中身が床にぶちまけられ、『もったいなーっ!! じゃあ食べる! 全部食へます!!』と三毛猫《みけねこ》がモグモグ口を動かした。  あははと苦笑して五和は台所スペースへ向かう。  彼女の目にはほのぼのした光景に見えているようだが、当の本人にとっては地獄絵図である。 (それにしても)  これもまた環境へ溶け込む事を旨《むね》とする天草式の能力か。なんだかんだでいつの間にか受け入れられていた五和のいる方へ、上条は首を動かす。  後頭部に人間の歯形をつけ、変死体のようにうつ伏せでのびていた彼は、お鍋がくらぐら煮見る音や高温のフライパンがじゃーじゃー鳴る音を聞いて、 (……お、女の子のお料理風景だ)  迂闊《うかつ》にもまぶたの端《はし》から一筋の涙が伝う所だった。 「むっ? 何でとうまは奇跡を目の当たりにした子羊みたいな顔になっているの?」  インデックスが言うが、上条《かみじょう》はシスターさんなど放ったらかしで恵《めぐ》みの光を一身に受ける。  そして、ただ五和を働かせてのんびりしているだけでは居心地も悪くなってくる。部屋の掃除でもやろうかしら、と上条は少々真剣に考えてみた。  一方、一通り上条の頭にかじりついてストレスを発散させたインデックスは、料理の匂《とお》いにつられるようにふらふらと台所スペースへと近づいていき、 「あっ、駄目ですよ勝手にちくわを食ベちゃ!!」 「そんな事を言われた所でこの口はもう止まらないんだよ」  さっそく空腹に負けて料理の邪魔《じゃま》を始めたインデックスを見て、上条当麻はむくりと起き上がった。  そして猛ダッシュするとインデックスの腰の辺りに両手を回し、高速で台所スペースから引き返す。その助走の勢いを利用し、得体の知れないプロレス系の投げ技でベッドの上に、そりゃァァああ!! とぶん投げた。 「ヲトコの夢を妨害すんなァァああああああああああああああああああああッ!!」 「むぎょおおっ!? とっ、とうま、これは一体どういう事!?」  目を回すインデックスが何事かを叫び三毛猫が鬱陶《うっとう》しそうに距離を取ったが、上条はまともに受け答えしない。  上条は無言でインデックスの頭を掴んで、グリン!! と台所スペースへ回転させた。 「見なさいインデックス!! あれが居候《いそうろう》の正しいあり方だ!!」 「痛たたたたたっ!? 何で今日に限ってそんなに行動的なのとうま!?」 「冷静になれば、何でお前はいつも食べて寝てテレビを見る係なんだ!? 今日からは仕事もしてもらいます。ほらスポンジと洗剤持ってお風呂場《ふろば》の掃除をしなさい!!」 「えー。今から『超起動少女《マジカルパワード》カナミンインテグラル』のさいほーそーが始まる時間だよ?」 「良いから仕事しろォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  なんでー? と首を傾《かし》げまくるインデックスをユニットバスに放り込む上条。五和のような真人間を見ていると、ふと心が洗われたりするものである。そう、周囲にいるのが煙草臭《タバコくさ》い放《ほう》火魔的《かまてき》な神父であったり年がら年中ニャーニャー言ってる多重スパイだったりするのでインデックスが比較的『まとも』に見えていたのだが、よくよく考えてみれば常識的な少女とは五和のような人間に与えられるべき称号なのだ。 (さて。俺《おれ》も真人間っぽく部屋の片づけでもしようかな)  とか何とか考える上条だが……人のご飯を作ってあげている五和と、単に自分で散らかした部屋を自分で掃除するだけの上条では釣り合いが取れる訳はない。でも、だからと言って何もしないよりかはマシだよな、と結局適当に持論をまとめつつ、ひとまずフローリングのあっちこっちで開きっ放しになっている雑誌を束ねてみる。  その時だった。 「こっ、この本格的な和食の匂《にお》いは何なのかーっ!?」  唐突に少女の叫び声が上がったと思ったら、ベランダの方からメキャメキャーッ!! というプラスチックの破壊音らしきものが響いてきた。上条がギョッとして首を回し、五和がびっくりして料理の手を止めると、そちらから出現したのはメイド服を着た土御門舞夏だ。  どうやら『火災時とか緊急時《きんきゅうじ》以外は壊《こわ》さないでね的に各部屋のベランダを区切っているボード』を遠慮《えんりょ》なく破壊し、侵入してきたらしい。 「おのれェ!! 久しぶりに真人間的行動に心洗われている所へまた変人か!!」  忌々しげな上条などお構いなしに、普段《ふだん》は表情の変化に乏《とぼ》しい舞夏は極めて真剣な顔つきでくんくんと鼻を鳴らして台所へ近づくと、 「……匂う、匂うぞー。……その味噌汁《みそしる》……隠し味に粉末状に削った乾燥ホタテを入れているなー……?」 「なっ、何故《なぜ》それを!? お母さんにも看破された事はないのに!!」  美食家に指摘され驚愕《きょうがく》する料理人五和。  料理の基本はやっぱりお母さんなのですね! と、隠れた家庭的ワードにちょっとホロリとした上条など放っておいて、今まさに味見しまうと小皿に少量の味噌汁をよそっていた五和は少し考え、そしてゆっくりとした動作でメイド服の少女へ小皿を手渡す。  まるで茶道みたいな挙動で舞夏はそれを受け取ると、全く無音で唇をつけ一拍の間をおいて———クワァアア!! と勢い良く両目を見開いた。  舞夏はわなわなと肩を震《ふる》わせながら、 「こっ、この女、できる……」 「は、はい?」 「ぐォらァあああああ!! こ、こうしてはおれん!!」  何やら口調を一八〇度変えたまま、舞夏はいそいそとベランダを通って隣室《りんしつ》へ再び戻っていった。  開いた窓を通して兄妹の会話が飛んでくる。 『あ、あれーっ!? 何で今日のホワイトシチューを下げちゃうにゃーっ! っつかオレの晩ご飯は!?』 『外野は黙《だま》ってろ!! あれだけの一品を見せられて、この程度で対抗できる訳があるかーっ! い、今に見ていろ、これからこの私が本物の味噌汁を味わわせてくれるわーっ!!』  ええーっ!? 別に今のシチューで良いんですけどーっ!? という金髪サングラスのエージェントの嘆きを開いて、五和《いつわ》が不気味そうにブルッと肩を震《ふる》わせた。 「え、ええと、さっきの男性の声って、アビニョンで聞いたような……? というか、そもそもあの子は一体どうしちゃったんでしょうか」  俺《おれ》も良く分かんないけど、多分メイド候補生の理解不能な琴線《きんせん》に触れてライバル認定されたんだよ……と上条は言いかけたがやめた。五和はまっとうな人間であって、そうした変人的行動に慣れているとは思えない。  上条としては、心の中でこう思うしかない。  願わくば、この少女だけは変人に染まりませんように、と。      7  一時はその人間関係が危ぶまれたインデックスと五和だったが、インデックスは五和が作った料理を食へてしまうとそれで全《すべ》て丸く収まってしまったのか、今では床をゴロゴロしながら五和に八杯目のおかわりを求めて困らせている。三毛猫《みけねこ》はと言えば、五和の持ってきた丸まったおしぼりにガブリと噛《か》みついて遊んでいるようだ。 (はー。まあ、大きなトラブルにはならないようで何よりだ)  こんなに簡単にインデックスの機嫌《きげん》が直ってしまうのなら、いっそ『インデックスが怒った時に投げる用』の魚肉ソーセージでも常備していようかしら、と上条は思わなくもないのだが……いや待て、お菓子を隠し持っている事に気づかれた時点でインデックスから噛みつかれるに決まっている、と思い直す。美味《おい》しい話というのはなかなか転がっていないものだ。  ともあれ、ご飯を食べてしまえばもうやる事はない。  今日は特に宿題も出ていないし、上条は自主的にお勉強をする子でもないので、もうお風呂《ふろ》に入って寝るだけである。  しかしここで問題が発生した。 「———何でスポンジと洗剤で掃除しただけでお風呂が壊れるんだよ、インデックス!!」 「そっ、そんな事言ったって私はとうまに言われた通りにゴシゴシやっただけだもん!!」  夜の街に上条とインデックスの叫びが響き五和が苦笑いを浮かべる。  彼ら三人が外出している理由は単純で、上条の部屋のお風呂(というか給湯機)が壊れて使い物にならなくなったため、近所の銭湯まで足を運ぶ羽目になったからだ。 「ちなみにインデックスは実は上条さんの言う通りにゴシゴシやっていないに賭《か》ける! っていうかバスタブの給湯口からプラスチックの溶けたみたいな匂いがしたのは何故《なぜ》か。それはインデックスが給湯口に思いっきり洗剤の原液を注ぎ込んだからですどうだこの推理!?」 「え? 洗剤入れたらキレイになるんじゃないの?」 「おっしゃーっ! ここで驚異の天然キョトンが来ました!! っつかおかげで給湯器内部が焦げ付いて火災寸前ですハイ!!」 「あ、あはは。ま、まあ、たまにはお外のお風呂《ふろ》を使うのも気分転換になって良いじやないですか」  五和がカミワザなフォローを割り込ませ、上条とインデックスの騒ぎが和らぐ。  人という生き物は、弱々しく気を遣ってもらうと大騒ぎできなくなるものである。  五和は小さな手帳をパラパラとめくりながら、 「学園都市って意外にそういう公衆浴場が充実しているんですね。昔ながらの銭湯から天然ものの温泉、スパリゾートまで揃っていますし……そうだ、ここなんてどうでしょう。アミューズメント施設と合休しているみたいですよ」 「……っつか、何で五和はそんなに詳細な学園都市情報を入手しているんだ?」  天然ものの温泉があるなんて話は地元の上条ですら知らない話だ。しかも五和が手にしているのは学園都市内部の出版社が発行しているガイドブックではなく、ボロボロになるまで手で書き込んだらしさ古い手帳である。 「(……ぇ、ええと、周辺の地理情報を把握しておく事は、対象を護衛する際に必要なものですし)」  五和はインデックスに聞こえないように小声で、「(……その上、アックアは魔術《まじゅつ》サイドの人間ですから、この街を走る『脈』の流れなども向こうの行動を予測する際に役立つと思いまして)」  ……お仕事熱心なのは大変結構なのだが、アックアの前に警備員《アンチスキル》などが機密保護条例を守るために襲《おそ》いかかってきたりはしないだろうか、とちょっと不安な上条だった。 「で、そのレジャーお風呂ってどこにあんの?」 「ええと 第二二学区だそうです。ここは第七学区ですので、お隣の学区って事になりますね」 「第二二学区って言うと……地下市街か」  およそ二キロ四方と、学区としての面積は一番狭いものの、地下数百メートルまで開発が進んでいるという、元々SFつぽい雰囲気を持つ学園都市の中でも際立《きわだ》って未来未来な場所だ。 「うーん。でも終電出てるしなぁ」  五和は古臭《ふるくさ》い手帳をパラパラめくりつつ、 「距離はそんなでもないですし。サイドカー付きのレンタバイクを借りればすくですよ。幸いショップも近くにあるみたいですし」 「え、五和バイク乗れんの?」 「まあ、それは、その。一応、自動車と自動二輪、小型船舶と ……飛行機は無理ですけど、ヘリコプターなら、何とか……」  何だか肩身が狭い調子で言う五和。  飛行機を操れない事がそんなに気になるのだろうか。 「日本の場合は交通網が発達していますから、それほど必要ないんですけど……。お仕事によっては延々と砂漠や草原が広がっている場所とかもありますし」  特に自慢でも何でもないのだろう。むしろ叱られたような蚊の鳴く声で言う五和《いつわ》だが、となると日本国内の免許ではなく、国際ライセンスの所有者という事になる。一輪車に乗れるだけでスゲースゲーの上条《かみじょう》からすれば、すでに五和は尊敬の対象である。  今日は普通少女五和の意外な面がいっぱい出てくるなあ、と上条はちょっと感心しつつ、寮の近くにあるレンタバイクの支店へ足を運ぶ事に。学生ばかりの学園都市の場合、レンタカーよりもレンタバイクの方が需用は高くてメジャーなのだ。  バイクの値段表と睨めっこする上条は、やがて雷に打たれたような顔で、 「そっ、そうか。五和は第七学区の学生じゃないから地域割引が使えないんだッ!!」 「え、ええと。大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。軍資金はありますから」  と五和は言うが、主婦的|家計簿《かけいぼ》スキルの身に付いた上条からすれば、少しでも安く、は物事の基本である。  結局、主に終電を乗り過ごして帰れなくなった人用の深夜お得プランで中型バイクを借りてくると、追加料金を払ってサイドカーをつけてもらう。  運転するのは五和で、その後ろに乗っかるのが上条。インデックスはサイドカーだ。 「とうま。私はこの構図に何らかの意図を感じるよ?」 「そっ、そんな事はないぞー。レディファースト的に言うとだなー、サイドカーが一番ふかふかで気持ち良い席だから上条さんは仕方なく譲《ゆず》っているだけであってだなー」  胡散臭《うさんくさ》い棒読みで否定する上条だが、五和のお腹《なか》に手を回した時点で心臓バクバクである。  五和は修道服のフードの上から強引にヘルメットを被ろうとするインデックスの世話を焼きつつ、ふと思い出したように、 「そう言えば、猫ちゃんはお留守番させておいて大丈夫だったんでしょうか?」 「流石に銭湯に動物連れていく訳にもいかないからなあ。ま、あの猫はのんびりゴロゴロしているようなヤツだし、問題ないとは思うけど」  ちなみにその三毛猫は現在、五和が持参した超高級爪研ぎボードの前で、『ひっ、ひのき!? なんかものすごく良い匂いがするけどホントに爪立てても怒られないんですかこれ!!』とガタガタ震えている事に誰も気づいていない。  そんなこんなで、インデックスが正しいヘルメットの被り方をマスターした所で、五和はバイクのエンジンをかける。 「うわお。夜の学園都市ってすいていますねー。ステアの挙動もエンジンの響《ひび》きも心地良いし、路面のコンディションも丁寧《ていねい》だから思わずスピードが出ちゃいそうです。 ……ああどうせなら学園都市名物の超電導リニア二輪っていうのにも挑戦してみれば良かったかな。なんか車輪とシャフトの間を磁力で反発させて、ドーナツ状の車輪を電気で動かすバイクがあるって話だったんですけど」 「ま、バイクについては分かんないけど、『外』の技術と比べちゃあな。それと一応、安全運転でお願いしま———バカ五和《いつわ》ホントにスピード出てる出てる!?」  上条が反射的に五和のお腹の辺りに回した両手に力を込めてしまうのだが、実はその反応が嬉《うれ》しくてスピードが出ている事にまでは頭が回っていない。  上条の寮は第七学区の端《はし》だ。隣《となり》の第二二学区までは歩いて行ける距離である。五和がバイクを持って来たのは、単に湯冷めするかもしれないから早めに帰れるように、という配慮だろう。  第七学区を抜けて第二二学区へ入ると、サイドカーに乗っていたインデックスが目をまん丸にした。 「わっわっ! とうま、ジャングルジムがあるよ! でっかいジャングルジム!!」  第二二学区の地上部分は他の学区と大きく異なる。いわゆる一般的な家屋やビルは存在せず、風力発電のプロペラだけが並んでいるのだ。それも普通の学区にあるような『電信柱の代わり』ではなく、まるでビルの鉄骨のように縦横に柱を並べ、三〇階分ぐらいの高さまで大量のプロペラを立体的に設置している。その光景はインデックスの言った通り『巨大なジャングルジム』だ。  地下市街へのゲートを目指しながら、ハンドルを握る五和は言う。 「地下に展開される第二二学区は他の学区のように風力発電や太陽光発電に頼れませんからね。その上、地下市街は大量の電気を使うらしくて、学区の至る所に発電対応策が講じられているそうですよ」  何だか妙に博識な五和が操るバイクが、四角く切り抜かれた地下ゲートをくぐる。  第二二学区の地下は巨大な円筒形だ。そして道路は直径二キロの筒の外周を這《は》うように、ぐるりと回りながら下っていく。反対の上り車線と合わせると、理髪店の前でくるくる回っているポールのような配置になるらしい。  いつまでも緩《ゆる》やかなカーブを描くトンネルは、オレンジ色の照明に照らされていた。普段《ふだん》の街並みとはまた違う電飾に、インデックスが両手を挙げて喜んでいる。  上条はやや排気ガスの匂いのする空気を吸い込みながら、五和に言った。 「地下市街って、日本とは合わないよなー。地震とかメチャクチャ怖いし。確か、どれだけ壁の強度を強くしても、地盤の断層ごとズレたら丸ごと引き裂かれちまうんだろ」 「一応、地震対策は万全って売り文句でしたけどね。そうそう、この螺旋状《らせんじょう》の道路は巨大なバネになっていて、地震が起きた時には衝撃《しようげき》を緩和《かんわ》する、とかいう話じゃありませんでしたっけ?」 「……それは根も葉もないウワサ話だ。つか、何で五和は設計図のスペックシートにも載っていないようなローカル都市伝説まで調へてるんだ?」  あ、あはは、と笑ってごまかす五和《いつわ》。 「そういや、レジャーお風呂《ふろ》って第何階層にあるんだ?」 「ええと、第三階層だそうです」 「とうま、『かいそう』って何? わかめ?」 「海藻じゃねーよ。階層。第二二学区は全部で一〇の地下階層に分かれてんの。で、これから俺達《おれたち》は上から三番目の階層に行くんだとさ」  そうこうしている内に、第三階層———地下九〇メートルへの入口ゲートが見えてきた。五和はウィンカーを点滅させ、減速しながらゲートへの分かれ道に進む。  四角いゲートをくぐると、視界が一気に広がる。 「うわあ……ッ!!」  思わず声を出したのはインデックスだ。  トンオル内のオレンジ色とは違い こちらは薄《うす》い青の空間だった。直径二キロ、高さ二〇メートルほどの広大な空間の天井《てんじょう》は一面プラネタリウムのスクリーンになっていて、地上部のカメラが撮影した『星空』をリアルタイムで映し出している。おまけに街の照明が同じ色で統一されているため、まるで星の海のど真ん中へ飛び込んだような印象を与えてくる。  地上から天井まで、間にあるプラネタリウムのスクリーンをぶち抜く形でそびえるビル群は同時にこの地下市街を支える柱としての役割も担う。もっとも、地下市街の屋根は体育館のように鉄骨を張り巡らせて重量を分散し、それだけでも自重に耐えられる構造になっているらしい。いざという時のために、複数の方式で支えられる設計になっているのだ。  インデックスはサイドカーからくるりと辺りを見回しつつ、 「こんなの、本当に地下にあるものなの? 川もあるし森もあるみたいなんだよ!!」 「森は農業ビルにある水栽培技術の応用だそうです。空気の浄化作用の他に、精神的な面から生活を支えるのにも役立っているみたいですよ。あと、水は地下市街の重要な発電源だそうで、各階層へ順番に落としながら、それぞれの層で水力発電していくらしいですね」  何だか今日の五和は学園都市の観光バスに乗っているバスガイドさんみたいになっている。  インデックスは首を傾《かし》げつつ、 「いつわ。何でそんなに電気がいるの?」 「うーん。一番大きいのはポンプでしょうか。地上から酸素を取り込んで、逆に溜まった二酸化炭素を排出するのに必要ですし、雨水や生活廃水を下の層から吐《は》き出すためにも、やっぱり大きなポンプが不可欠なんです。第二二学区の消費電力の四割以上がこういう大規模ポンプを動かすために使われているらしくて、その辺りが実用化のネックになっているみたいですね」  学園都市は発電の大半を風力に頼《たよ》っているから、どれだけ電気が増えても飲料費や環境|破壊《はかい》について、それほど悩む必要はない。しかし他の国や地域では違う。環境問題が声高に叫ばれ、石油の値段が日々上がる中で化石燃料に頼りながら地下市街を作るというのは、現実的に難しかったりするらしい。……そもそも、敷地《しきち》に限りのある学園都市とは違って国土に余裕のある広大な国では地下に街を作る必要性そのものに迫られていない訳でもあるのだが。 (ま、研究が成功するのと、それが実際に市場に出るのはまた違う問題みたいだしな)  人工的な星の海を、サイドカー付きの中型バイクが突き進む。  後部シートに乗った上条は、遠く方に見えたビルの電飾を指差して言った。 「ん? おい五和、例のレジャーお風呂ってあれじゃねえのか?」 「あ、そうみたいですね」 「しっかし、そこって結構話題になってんだろ」 「え、ええ。街のお風呂ランキング三位らしいですけど」  ……本当にそんな情報が護衛の役に立ったりアックアを倒すのに必要なんだろうか、と上条は首を傾《かし》げてしまうが、五和はお構いなしだ。 「それがどうしたんですか?」 「いや……。そんなに有名な所なら、知り合いと顔合わせたりするかなーって」      8  御坂美琴《みさかみこと》は足を止め、眼前にそびえる巨大な建物を軽く見上げた。  第二二学区の地面から天井《てんじょう》まで一気に貫くビルの出入り口には、『スパリゾート安泰泉《あんたいせん》』とある。平たく言えば、このビルは全部大きなお風呂なのだ。各階のフロアにはそれぞれ特殊な薬効成分やら電気やら超音波やらといった特殊なお風呂がズラリと勢揃《せいぞろ》いしていて、それでも余ったスペースにはショッピングモールやゲームセンター、ボーリンク場などをぎゅうぎゅうに詰め込んでいる訳である。  昔ながらの『銭湯』というよりは、『お風呂という形をしたレジャー施設』という方がニュアンスは近い。ターゲット層も(学生ばかりの学園都市という背景もあってか)一〇代の少年達に合わせて設計されている。  アミューズメント主体の施設であるため、VIP用の浴場なども用意されている訳だが、美琴の狙《ねら》いはそちらではない。 「……湯上がりゲコ太ストラップ……」  サービス期間中にスタンプカードに一〇点ためると入手できるキャラクター商品である。このための『スパリゾート安泰泉』だ。このストラップがなければ、わざわざ寮の門限をぶっちぎって脱出し、ルームメイトの白井黒子の追跡を振り切ってこんな所まで来る意味はない。 (まあ別に黒子は連れて来ても良かったんだけど……あいつはお風呂とか言うと蛇《へび》みたいに絡《から》みついてくるに決まってるしなあ……)  一瞬《いっしゅん》それを想像しかけて、背筋に寒いものを感じる美琴。首を振って嫌《いや》なイメージを払拭《ふっしょく》すると、美琴《みこと》はお風呂《ふろ》ビルへ突撃《とつげき》した。入口をくくると大きなホールがあるが、受付のようなものはない。料金は各フロアにある浴場入口で支払うようになっているのだ。  団扇《うちわ》をハタハタ煽《あお》いで涼んでいる一団や、お風呂に飽きてゲームセンターへ走る子供達の間をすり抜け、美挙はエレベーターへ向かう。  壁に張り付けられた案内板を見ながら 「さってと。今日はどこでスタンプ稼《かせ》ぐかね……」  超音波を使ったお風呂はもう入ったし、電気を使うお風呂なんて発電能力者《エレクトロマスター》の自分がわざわざ入るようなものではない。そんな風に消去法で一つ一つ消していくと、後は基本的な薬効成分を高めたお風呂ぐらいしか残っていなかった。薬効成分、などと書くと不気味なイメージが湧くだろうが、ようは温泉の仕組みを科学的に分析し、同じ効果を得られるように調整されたお風呂の事である。 「素直に入浴剤を使っていますと書けばいいものを」  身も蓋《ふた》もない言葉と共にエレベーターに乗って八階へ。お風呂の入口で料金を払ってバスタオルを借りると、脱衣所に入って手早く衣服を脱ぐ。淡い色のタオルを体に巻き、ロッカーの鍵《かぎ》をかければ突撃準備完了だ。 (……意外に短いのが、ネックなのよね)  バスタオルの端《はし》、太股《ふともも》の辺りをやや気にしながら、美琴は大浴場への扉を開く。  ビル特有の高さは全く感じられない。窓がないからだ。風光明媚《ふうこうめいび》な山の中ならともかく、ここは都会のど真ん中。風景を見るために女湯に窓を用意するなど自殺行為に等しい。……もっとも第二二学区の場合、仮に窓があったとしでも、そこに広がるのはやっぱりただの地下空間なのだが。  お風呂の内装は典型的な銭湯に近いが、お湯の熱さに応じて浴槽《よくそう》は三分割されている。壁にはペンキで描かれた富士山……などはなく、代わりに一面が発色磁気粒子の巨大モニタになっていた。確か粒子を直接変色させる事で光を使わずに色を表現する画期的なモニタという売り文句だったが、値段が馬鹿《ばか》高いのと普通の人には今までのモニタでも何の問題もない事から、一部の芸術家や映画館などでしか買い取ってもらえなかったという悲劇の一品だったはずだ。  モニタはタッチパネルも兼任しているらしく、二、三人の子供達が『いたって。だから白い天使がいたんだって』『いないよーそんなの』『本当、こんなの。悪をやっつけてたんだよ』とか何とか言いなが掌をベタべタ這わせてお絵描きしたり、小さなウィンドウを切り抜いて夜のドラマを見ているキャリアウーマンらしき女性もいる。  美琴はお湯の蛇口《じゃぐち》が並ぶ一角で腰掛け、センサー付きの蛇口を軽く握る。そのまま数秒経つと、蛇ロの根元にある小さなモニタに『三八度』と表示された。掌から体温を測り、体を洗う上で最も効率の良い温度のお湯を自動で調節してくれる訳だ。 (いっその事、スタンプをためるために数秒だけ湯船に入って往復するってのはどうかしら。ううん、それはそれで違うのよね。……やっぱ危険を承知で黒子を呼んで、スタンプを二倍ゲットするとか、いっ、いやいや……ッ!?)  適当な事を考えながらボディソープを使って軽く体を洗い、お湯を使って柔らかい泡を流し落とす。 (にしても、スタンプまだ半分くらいしか溜まってないし。湯上がりゲコ太は違いなあ)  実はあんまり熱いお風呂《ふろ》が好きではない美琴《みこと》は、三分割された浴槽の内、一番子供向けの方へ足を進めていく。  と、そこで美琴の動きが止まった。  視線の先に、  見覚えのある銀髪|碧眼《へきがん》のシスター少女が湯船に浸かっていたからだ。 「あっ、あれ!? 何でアンタこんな所にいるのよ!?」  美琴は思わず大きな声で言ったが、白っぽく濁《にご》ったお湯の中にいる少女インデックスは、自分の口の近くに人差し指を当てると、 「……お風呂では、静かに!」  言われてみればその通りなので、美琴は口を閉じると、スゴスゴと湯船に足の先をつける。  そこでさらにインデックスが言った。 「……お湯にタオルは入れない!」  外国人から日本の銭湯ルールを注意されて地味にヘコむ美琴。淡い色のタオルを取って湯船に肩まで浸かった美琴は、ふとインデックスの隣に、二重まぶたが特徴的な見知らぬ少女が佇《たたず》んでいる事に気づいた。  いや、見知らぬ、ではない。 「そうだ、変なサッカーボールのせいであの馬鹿《ばか》に抱き着かれてた女じゃない!!」  いきなり言われて、地味だった少女は『ぶぐぅば!?』と噴き出して顔を真っ赤にさせた。両手をバタバタと振りながら『いっ、いえっ、いえいえいえわた私はわたわわたわたわた……ッ!!』と何か言い訳をしようとして失敗している。一方で外国人のシスターの口がわずかに開き、そこからギラリと輝《かがや》く歯が。  しかし美琴は地味っぽい少女の言葉など聞いていない。  バタバタと手を振ったためにガードの手薄《てうす》になった胸元へ目をやり、白く濁ったお湯からわずかに見える部分だけから推察して、 (意外にデカそう……)  素直に負けを認めるしかない状況だと気づいて舌打ち。今は色つきのお湯に隠されているが、この地味少女が浴槽から立ち上がったら、その瞬間《しゅんかん》に美琴は絶望に打ちひしがれる事間違いなしだ。  ごにょごにょごにょごにょーっ!! と小声早口で言い訳らしきものを連続させる地味少女を見ながら、ふと美琴《みこと》は考える。  そういえば、この子|達《たち》は、あの馬鹿《ばか》の抱えている『事情』を知っているのだろうか?  事情。  記憶喪失。  美琴がそれを知ったのはつも最近だ。一体いつから記憶がないのか、どういう原因でそうなったのかなど詳しい事は何も分からず。ただ断片的な情報から察するに、あの馬鹿本人は自分が記憶喪失である事を隠したがっているように思える……という予想ができる程度だ。 (こいつらは……その……記憶喪失については知ってたのかしら)  それとなく顔色を窺《うかが》ったりしてみるのだが、もちろん読心能力者《サイコメトラー》でもあるまいし、それくらいで人の考えが分かるはずがない。  美琴は湯船に浸《つ》かりながらさらに頭を働かせ、 (っつか、そもそもこれはあの馬鹿が抱えてる問題であって、私は丸っきり部外者なのよね。私がどうこうして何が解決する訳でもない———ってのは分かってんだけど。だー、大体何で私があの馬鹿の事でこんなに悩まなくちゃならないのよ面倒臭《めんどうくさ》いったらありゃしないわぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく……) 「あっ、あれ!? 短髪がお湯の中に沈んで行っちゃうよ!?」 「のぼせてるんです!! 早く助けてあげないと!!」 「?」  一足先にお風呂から上がっていた上条《かみじょう》は自販機の前で、コーヒー牛乳とアイスクリームのどちらで攻めるべきか考えていた所で、ふとバタバタという足音を聞いて振り返った。  救護室、と書かれた部屋から出てきた女医さんが女湯へ突撃《とつげき》していくのが見えたが、当然ながら中の事は分からない。      9  そんなこんなで楽しいお風呂タイムは終わった。  上条はレジャーお風呂のビルから出て、正面入り口に突っ立っていた。別に煙草《タバコ》を吸いに来た訳ではなく、夜風を浴びに来たのだ。 「……地下市街だっつーのをすっかり忘れてたし  しばらく経ってから完全な無風状態である事に気づき、肩を落とす上条。  がっくりしながらも、彼はふと考える。  ローマ正教の最暗部『神の右席』の一人、後方のアックアからの宣戦布告……。これ以上の懸念《けねん》が存在しないほどの非常事態だが、蓋《ふた》を開けてみれば特に何も起こらない。  (ただのブラフだった……? いや、そう判断するのはまだ早いか)  うーん、と悩む上条の隣に何だか湯上がりで良い匂いがする五和が近づいてきた。 「そんな所にいると湯冷めしてしまいますよ」 「いや、ちょっとのぼせ気味だったからちょうど良いかも」 「ええと、帰りもバイクを使いますので、その時間を考慮すると、やっぱり湯冷めするかもしれませんけど」  控え目に指摘され、ガーンとへこむ上条。  そんな彼の顔を見て、五和はくすくすと笑った。 「少し歩きませんか?」 「湯冷めするって言ったのは五和じゃない!!」 「どうせ湯冷めしてしまうのなら、もう構わないかなとも思いますけど。それに、何でしたら後でもう一度お風呂《ふろ》に入っても良いんじゃないですか? プールみたいに遊べるお風呂もいっぱいあるみたいですよ」  それはそれでパラダイスだな、と上条は心の中だけで思って頷《うなず》いた。  ぶっちゃけ、一人で男湯は寂しかった。 「ああそうだ。インデックスはどうしよう?」 「何だか、ビルの中にある『食べ物空間』の試食コーナーを駆け回っていましたけど」  そんな状態のインデックスを呼び止めて散歩に誘ったら、その時点で頭を噛み付かれるに決まっている。試食コーナーから出る事はないから迷子にはならないだろ、と上条は適当に結論を出す。 (……それに、アックアについても今の内に色々話し合った方が良さそうだしな)  後方のアックアが学園都市へ来るかもしれない、という話はインデックスには内緒にしてある。今回のターゲットは上条一人だ。余計な事を言って彼女を危険な場所へ引きずり込むような真似《まね》は避《さ》けたいのだ。  そんなこんなで五和と夜の地下市街を散策する事にした。  青一色で統一された夜景は、得体の知れない南国の蝶の鱗粉《りんぷん》のようにも、珊瑚礁に覆われた海の中のようにも見える。お風呂から上がったばかりで体が火照っているからか、不思議と冷たい印象はなかった。 「そういえば、天草式《あまくさしき》は日本からイギリスに引っ越したんだっけ?」 「ええ、まあ」 「イギリスでの生括って、どんなのなんだ」 「うーん」  五和《いつわ》は少しだけ考える素振りを見せて、 「ロンドンへ移住したと言っても、私|達《たち》が任されているのは日本人街のブロックですから、そんなに変わらないですよ。毎日三食、食べるものも日本と同じですし」 「え、そんなもんなの?」 「うーん……」  五和はさらに曖昧《あいまい》に笑い、ほんの少しだけ間を空けて、 「そのう、そもそも天草式《わたしたち》はあらゆる環境を学習し、その環境に適した形て溶け込む集団ですから。『知らない場所』へ向かう時の反応は、普通の人とは違うかもしれません」  となると、五和達が日本人街にいるのは『日本の風習を引きずっている』のではなく、『日本人の集団がいても違和感のない場所』を選んだだけかもしれない。おそらく本当は和洋中ドンと来いな感じなのだ。 「イギリス清教の待遇も良くしていただいていますし。もちろん『天草式としての』感覚なんですけど、ロンドンでの生活も気楽なものですよ」  五和は笑ってそう言ったが、そんなに単純なものではないだろう。  イギリス清教として動く事に政治的な問題が生じる場合、天草式だけを動かして、いざとなればトカゲの尻尾のように切れる状況を、上条は何度か見ている。巨大組織の『傘下《さんか》』になるという事は、そういう便利屋的な仕事を押し付けられる事でもあるのだ。 「そっか」  ただ、上条はそれらを呑《の》み込んで、一言だけ答えた。  五和の表情は簡単な笑みではなかったが、それでも今ある境遇に満足しているように思えたからだ。 「あのさ、そういえば天草式ってのは街に溶け込むように存在している宗派なんだよな」 「ええ、一応そういうものを目指していますけど」 「となると」  上条は改めて五和の格好に目をやる。  今の彼女は、明るい色の羊みたいなトレーナーの上から、ピンク色のタンクトップを重ね着していた。濃い色の細いパンツは巻きつくような切れ目が入っていて、めくれるのを防ぐために透明なビニール素材を当ててある。 「それって、ロンドンの人達はみんなそういう格好[#「そういう格好」に傍点]をしているって事?」 「あっ、ええと 今は一応『学園都市の中に紛《まぎ》れる事』を意識して選んでいるつもりなんですけど」  もしかして浮いてます……? という不安げな五和に、上条は軽く首を横に振った。  彼女はややホッとした様子で、 「こういうのは口で説明するのは難しいんですけど、その、ロンドンの方はもう少し大人っぽい感じかもしれません」 「はー、学園都市以外のブラントとか知らないからなあ。やっぱ向こうのアイテムで固めるとそういう感じになったりすんの?」 「ええと、そうではなくて。向こうの人も国内品だけを好んでいる訳ではないので、逆にそういう選び方は危険な場合もあって……。それ以外にも、着ているものは同じでも、仕草や挙動に特徴をつけるだけで、結構|雰囲気《ふんいき》は変わってしまうというか」  ごにょごにょと言う五和《いつわ》。衣服に関してはほとんど感覚的な処理をしてきたため、改めて論理的に説明するのが難しいのだろう。『自転車の乗り方を教えて』と言われても、『自転車に乗るんだよ』以外に説明のしようがないのと同じである。  ともあれ、ロンドンでの五和の格好がちょっと気になる上条。  とっさに連想したのは、彼女以外に存在する、もう一人の天草式の知り合い。  神裂火織だ。 「———でも神裂の服装って変じゃね?」 「ッ!? な、と、へ、変、とは……?」 「あいつ確かに大人っぽいけど大人しいっつーより絶対エロいと思うけどなあ?」 「とっ、唐突に女教皇様《プリエステス》へなんて凄まじい評価を!? あれはエロいのではなくて術式を組むにあたって左右非対称のバランスが有効なために採用しているのであって別に体のラインを見せつけている訳では———ッ!!」  ハッ!? とそこで我に返る五和。  胸の前で両手をグーにして力説する奥手少女の変貌《へんぼう》ぶりに、上条はやや引き気味で、 「じ、じゃあ何だ。五和|達《たち》としては結局『ロンドンに来て正解だったぜイエーイ』っていう感じなのか」 「??? まあ、女教皇様《プリエステス》のいらっしゃる場所に来れた事は嬉しいです」  上条の唐突な方向転換に五和はややキョトンとした。 「……ええと、距離が遠くなっちゃったから、日本にいる人とはすぐに会えなくなっちやったのが残念ですけど……」  彼女は上条の隣を歩きながら、少しだけ視線を下に向けて、口の中で何かを呟《つぶや》く。 「……でも、そういうのも良いかなって最近思っていて。その、織姫《おりひめ》と彦星《ひこぼし》みたいだなあって……」 「? どうしたの五和?」 「いっ、いえ!! 何でもないですハイ!!」  上条がキョトンとした顔で質問すると、五和は唐突に顔を真っ赤にして両手をわたわたと振り始めた。 10  建宮斎字《たてみやさいじ》を中心とした現|天草式《あまくさしき》のメンバーは、そんな上条と五和から少し離《はな》れた所にいた。 彼らは一ヶ所ではなく、上条達をくるりと取り囲むように、主要なアクセスルートを押さえつつ、対象と同じ速度で絶えず移動する。しかも、それでいて完璧《かんペき》に風景に溶け込み、何者かを守っているという素振りは見せない。もしもこの状況を要人護衛の専門家が見れば舌を巻いただろう。そして、天草式は専門家にすらその正体を勘付かせない。  イギリス清教からの命を受けて任務に当たる天草式の中心人物である建宮は、数人の若者達とグループを組んで街を歩いている(ふりをしている)。彼らはカラオケボックスや屋内レジャー施設などが並ぶルートを通り、どこの店に入るか品定めをするように見せかけながら、上条と五和を一定の間隔《かんかく》で追う。 「教皇代理、どう思います?」  隣《となり》にいる牛深《うしぶか》が尋ねてきた。 「五和のインデックス押しのけ夜のデート大作戦?」 「後方のアックアです」  短く言われて、建宮の表情がわずかに変わる。  彼は周囲を軽く見回しながら、 「今の所、侵入の痕跡はなし。学園都市側からはそういう報告を受けちゃいるが」 「……やはり、信じられませんか」 「この場合、信じられないという言葉には二通りの意味があるのよ」  建宮はニヤリと笑い、 「一つ目は、単純に学園都市のセキュリティが魔術《まじゅつ》関係に疎く、信用できない場合。二つ目は、学園都市上層部が何らかの意図で、本来得ている情報を隠している場合。さて牛深、お前さんの信じられないは、どっちの信じられないよな?」 「それは……」 「そもそも、上条当麻一人のために、学園都市、イギリス清教、そしてローマ正教『神の右席』の三方が策略を巡らせる、というこの構図がすでに妙なのよな」 「教皇代理」 「ああ。分かってる。俺達《おれたち》天草式にとって、上条当麻って名前にゃそれなりの価値があるのよ。時に命を救ってもらい、時に共に戦ってもらった相手だし」  ただ、と建宮は言葉を切って、 「学園都市にとって、上条当麻とは何だ? イギリス清教にとって、上条当麻とは何だ? ローマ正教『神の右席』にとって、上条当麻とは何だ? ……それは、『組織』ってデッカイものを動かすだけの価値があるものなのか」  建宮《たてみや》を中心とするグループの数人は、わずかに黙《だま》った。  答えが分からないのではない。  思いはしたが、口に出すのが憚《はばか》られたのだ。 「……いくつかの仮説なら、立てられる」  建宮|斎字《さいじ》が、やがてポツリとそう言った。 「ただ、そいつが……上条当麻《かみじようとうま》の『価値』が、成り立ちも広がり方も違う三つの巨大組織に共通するものなのか。その辺りで思考が止まっちまう。どうにも、まだ俺達《おれたち》の知らない情報が隠れていそうな気がするのよな」 「教皇代理……」 「本気で上条当麻を護衛するんなら、そっちも含めて一度探ってみる必要があるのかもしんねえのよな。今みてえに一回二回の襲撃《しゅうげき》にガタガタしてんじゃなくて、そもそも『襲撃してくる者』の核を直接叩くために」  と、そこで建宮の言葉が途切れた。  違和感に気づいたのだ。  消えているのは人。いつの間にか、夜の地下市街を歩いている者が建宮達だけになっている。何らかの手段で人の流れが操られた。それも、『風景に溶け込む事』を得意とする天草式《あまくさしき》の目をかいくぐるほどの高精度で。 「……、」  言葉すらなかった。  建宮が指先だけで合図すると、数人の若者達が隠し持っていた『武器』へ手を伸ばす。  周囲を警戒する天草式は、ある感覚を得た。  それは圧迫感。  地下鉄のホームで列車が近づいてきた際にやってくるような空気の塊《かたまり》にも似た感覚。ただ単純に『巨大なもの』が近づいてくる事で巻き起こる、余波のような何か。  建宮はそちらへ振り返る。  そこには、      11  青で埋め尽くされた地下市街の中を、上条と五和《いつわ》の二人は歩いている。普通の街と違って計画段階から景観を意激して作られたせいだろう。統一の取れた夜景は若干窮屈《じゃっかんきゅうくつ》さを感じるものの、全体としてはやはり綺麗《きれい》なものだった。  と、隣《となり》を歩いている五和が、ポツリと言った。 「動きませんね。アックア」 「……学園都市のセキュリティに引っ掛かっている、なんて都合の良い話じゃないんだろうけどなあ」  のんびりしていると忘れそうになるが、目下最大の問題はやはり『神の右席』だ。  学園都市の警備員《アンチスキル》も馬鹿ではないが、過去に魔術師が何度も侵入してくるの見たた上条としては、彼らに全てを任せておけば安心……とは言えない。ましてアックアは、前方のヴェントを回収するために実際に一度学園都市に侵入しているのだ。  天草式の増援は頼もしいが、こちらもやはり、いざ政治的な問題になればトカゲの尻尾を切れる範囲での応援しかしない、と言外に宣言されている。もしもイギリス清教がなりふり構わず全力でアックアと戦う気なら、迷わず神裂《かんざき》を使うはずなのだ。  話題が変わると、それだけで夜景の青の質が変わったような気がした。奇遇というか何というか、後方のアックアが掲げる色も青であるらしい。 「襲撃《しゅうげき》がない事自体は、喜ぶべき事なんでしょうけど……」  どう判断して良いのか分からないのだろう。五和《いつわ》の口調もどこかふらふらとしている。  青に染まる街を歩きながら 上条は少し考えて、 「また、学園都市の中でこそこそと下準備をしていたりとか、色々複雑な事になってるかもしれないな」  ただ、これまでぶつかってきた『神の右席』の二人……前方のヴェントと左方のテッラは、それぞれ正反対の攻め方をしていた。片や真正面から踏《ふ》み潰《つぶ》すように学園都市へ侵攻し、片や世界中に混乱を巻き起こして遠回しに科学サイドを締め上げようとした。  サンプル数がたった二人しかいないのでは『神の右席』という全体像を掴《つか》むのは難しいし、ましてヴェントもテッラも尖りすぎていて参考にならない。 「とにかく、気をつけないといけませんよね……」  五和は小さな拳をグッと握り締め、 「教皇代理を含めて、みんなも見えない所で頑張ってくれていますし。誰が来るにしたって、私達がベストを尽くす事に変わりはないんです。いつもと同じ事をするだけなら、特別意識する必要もないんですよね」 「いつもと同じ事、ね」  上条は五和の言葉を開いて、思わず苦笑してしまった。 「……っつか、『神の右席』なんてご大層な組織から狙《ねら》われているのに、お風呂《ふろ》が壊《こわ》れてレジャー施設へやってくるっていうのは、何だか情けないよなぁ……」 「いっ、いえいえ。そんな事はないと思いますよ」  五和はわたわたと手を振って、上条の言葉を打ち消した。 「強敵がやってくるからと言って、必要以上に身構えていでも気疲れするだけなんです。全力を出すためには最適のコンディションを保つのも重要です。そのため『力を抜く』っていうのは、実はとても効果的なんです。無理に頑張って『特別なリズム』の中で生きようとした所で上手くいくはずがないんです。そんなの淡水魚を海水に放すようなものだと思います」  そんなもんかな、と上条が首をひねる。  散歩のコースは特に決めていない。インデックスの前でアックアの事を話せば一緒《いっしょ》に戦うと言い出すのは間違いないので、今回の件については内緒という事にしてあるだけだ。話す事は話したし、ちょうど目の前に川が見えてきて、その川に鉄橋が架《か》かっている事から、あれを渡ったら別のルートから引き返すか、と上条は適当に考えた。 「そういや他の天草式の連中は? 建宮とか」 「ええとですね。今も少し離《はな》れた所から見張ってくれていると思いますけど」  五和《いつわ》はそれから、ちょっと残念そうな口調で 「女教皇様《プリエステス》もいてくだされば、百人力だったんですけど」 「それって、神裂《かんざき》の事だよな。やっぱ、あいつってすごいのか」 「そっ、そうですよ! 女教皇様《プリエステス》は世界で二〇人といない聖人なんですから! どんなトラブルだって女教皇様《プリエステス》がいれば一発で解決するんです!!」  へぇーなるほどなあー、と上条は超適当に相槌《あいづち》を打ちながら、 「ま、『神の力』とかいう大天使とケンカするぐらいだからな。やっぱすごいんだなあ神裂って」 「ぶごぅえあ!? だっ、大天使と、ケンカ? それってどういう事ですか……ッ!?」  おや? と上条は首を傾《かし》げる。あれは『御使堕し《エンゼルフォール》』という特殊な環境下での出来事だったから、五和は知らないのだろうか。でも、神裂のいる脱衣所へ突撃《とつげき》した事は土御門《つちみかど》辺りから聞いているようなのだが……。どうも、『御使堕し《エンゼルフォール》』については、いまいちイメージしにくい上条である。  うーん、と上条は頭を掻《か》きつつ、 「聖人も天使もすごいんだなー。世の中すごいヤツらばっかりだ」 「も、ものすごくアバウトに評価されていますけど……」  五和はまだちょっとショックから抜け切れていないようだ。 「一応、天使と聖人でしたら、天使の方が格は上ですよ」 「そういうもんなの? 神裂でも頑張れば天使を倒せたりしない訳?」 「む、難しい質問ですね……。ただ、単純な力なら天使の方が断然上です。聖人として与えられる力よりも、天使一体が持っている許容量の方がケタ違いですからね」  五和の話によると、人間が『聖人』として振るえる力には限界があって、それを無理に超えると自滅する恐れもあるらしい。魔術《まじゅつ》業界の学者の問でも、『天使が何故《なぜ》あれほどの力を溜め込んで暴走しないのか』というのは様々な学説があるだけでハッキリしていないそうだ。 「ちくしょう、勉強の事を考えると頭が痛くなるのはどこも一緒《いっしょ》なんだな」 「アバウトに言ってくれましたけど、でも、多分その意見は正しいと思います……」  肩を落として息を吐《は》いている所を見ると、五和《いつわ》も色々頑張っているらしい。 「話を戻そう。神裂《かんざき》の協力はないって事だったっけ。でも、今は神裂も天草式《あまくさしき》も、同じイギリス清教に所属してるんだろ。頼《たの》めば受けてくれるんじゃないの?」 「そう……ですね。いるにはいるんですけど、『聖人』というのは核兵器みたいなものですから、そんな簡単にイギリス国外で活動させられないみたいですし。それに、天草式にも色々事情があるもので、そう簡単に協力を仰げないというか……。やっぱり、その辺りはデリケートな問題でして……」  そんな事を言いながら、上条《かみじょう》と五和の二人は鉄橋に足を踏《ふ》み入れる。  鉄橋の長さは五〇メートルほど。  橋のサイズとしてはそれほどでもないが、川全体が人工的なものである事を考えると、それはそれでちょっと感慨深い。  これも照明の一環なのか、ライトアップされた鉄橋の基本色はやはり青だった。 「(……気を緩めちゃいけないのは分かっているんですけど、二人きりだ、うわあ……)」 「どしたの五和?」 「いっ、いえいえ!! 何でも!! 何でもないですよ!?」  顔の前で小さな手をブンブンブンブン!! と超高速で左右に振りまくる五和。 「え、ええとその、あんまり人気がないんだなーって思いまして。二人きりとかそういうのではなくてですね、せっかく綺麗《きれい》に飾り付けられているのに、も、もったいないなー、とか……」  橋の歩道ゾーンを進みながら、上条は首を傾げた。  何で五和はさっきから早口で愛想笑《あいそわら》い全開なんだろうか? 「まあ、時間帯にもよるんじゃないのか? 夜の学園都市ってこんなもんだよ。終電とか終バスの時間をわざと早めに設定してさ、夜遊びしにくいようにしてるんだ。ま、それでも遊ぶヤツは遊ぶんだけどな」  と言ったものの、直後に違和感が生じた。  今は夜の一〇時過ぎ。確かに主要な交通機関は眠りに就いている。  時間帯によって道路の交通量が変化する事自体は珍しくもない。住民の八割が学生である学園都市ならなおさらだ。  ただし、  午後一〇時を過ぎた辺りと言えば、夜遊び派なら全然普通に動いている時間のはずだ。 (ま、ずい……ッ!?)  不自然なまでに無人の風景に[#「不自然なまでに無人の風景に」に傍点]得体《えたい》の知れない悪寒《おかん》を覚えた上条《かみじょう》は、思わず五和《いつわ》に危険を呼びかけようとした。  しかしできない。  それだけの暇がない。 「———宣告は与えた」  声が聞こえる。  前方から。ある男を象徴する青いライトアップ。その照らしきれぬ闇の向こうから、武骨《ぶこつ》な男の声が飛んでくる。 「———貴様の前には、いくつかの選択肢があったはずである」  足音が聞こえる。  しかしそれは、まっとうな人間の出す音ではない。一歩一歩踏《ふ》み出すごとに、ズン……ッ!! と鉄橋から低い震動《しんどう》が伝わってくる。圧倒的な力の片鱗《へんりん》。あるいは明確化された死へのカウントダウン。青い闇から近づく奇怪な足音が示すものは、もはや暴力以前の理不尽《りふじん》さだった。  五和はこの異常な事態に対して、唖然《あぜん》としていた。やや緊張感の欠けた表情だが……上条は即座に気づく。天草式《あまくさしき》本体からの連絡はどうした。彼らはつかず離《はな》れず上条達を陰ながら護衛していたはずではなかったのか。 「———私の宣告を受け止めた上で熟考し、自分の命を預けるに足ると判断した選択肢が『これ』だと言うのなら、私は真っ向から立ち塞がるのであるが」  だが、と声は嗤《わら》った。 「———率直に言おう。もう少しまともな選択はなかったのかね」  闇が拭《ぬぐ》われる。  あくまで光源は淡いライトアップのみ。夜を払うほど強い光が追加された訳ではない。ただ、その男が薄闇《うすやみ》の奥からこちらへ近づいてきただけ。ただそれだけのはずなのに、まるで闇の方がカーテンを開くように男から遠ざかったように感じられた。  茶色い髪に、石を削り取ったような顔立ち。衣服は青系のゴルフウュアを彷彿《ほうふつ》とさせる。屈強な体つきだが、そこに健全さはない。それは血にまみれた兵隊の体だ。 「お前は……」  知らない顔ではない。  かつて一度———九月三〇日の学園都市で、上条はこの男と出会っている。  幻想殺し《イマジンブレイカー》を使ってかろうじて打ち倒した前方のヴェントを、横からさらっていった大男。 「後方のアックア。以前そう名乗っておいたはずであるがな」  神の右席。  そして同時に、『聖人』としての資質をも持ち合わせた者。 「宣言通り、って事か」 「策を練る必要性は感じられない」  アックアは簡単に言った。 「私はただ、この世界で起きている騒乱《そうらん》の元凶を排除しに来ただけである」  言ってくれる、と上条《かみじょう》は心の中で毒づいた。  前方のヴェントは学園都市の機能を麻痺《まひ》させた。左方のテッラは世界中を混乱させた。彼らの事情が何であれ、『神の右席』から騒乱の元凶などと言われる筋合いはない。 「話し合いはなし。最初っから殺す気か」 「ふん、確かに性急すぎたかな」  アックアはつまらなさそうに上条の体を上から下まで一瞥《いちべつ》し、 「私の望みは騒乱の元凶を断ち切る事である」 「騒乱って何だよ」 「分からんとは言わせん」 「原因があるならそっちだろ!! アビニョンで何をやったか、忘れたとは言わせねえぞ!!」 「それすらも、『上条当麻及び学園都市という危険分子を攻略するため』という原因が存在するのだがな」  平行線の状況に、アックアは苛立《いらだ》つ事すらない。  つまりは最初から、上条の言葉など聞いていない。 「全ての元凶は貴様の肉体の一部を起点とする特異体質にある。ならば、命までは奪わなくても良いであろう。———その右腕を差し出せ。そいつをここで切断するなら、命だけは助けてやる」  答えるまでもない申し出だった。  アックア自身も、断られる事を前提に会話をしている。 「天草式の本隊は……」  その時、五和《いつわ》がようやくポツリと呟《つぶや》いた。  それが何らかのサインなのだろう、五和は周囲に目配せをするが、 「無駄《むだ》である」  たった一言で、アックアが断ち切る。 「私の仲間は、一体どうしたんですか?」 「殺してはいない」  アックアは簡単に言った。 「私が倒すべきは奴等ではないからな」  言いながら、アックアの体がふらりと動く。  お互いの距離は一〇メートル前後。こうして観察する限りアックアの手には武器らしい武器は何もないし、衣服の中に隠している風でもない。ゴルフウェアにも似た服装は屈強な体に押し広げられ、そういった物を隠すスペースが残っているとは思えないのだ。  それでも、上条《かみじょう》と五和は全身の神経を集中して、アックアの指先の動きまで捉えていた。争いを回避《かいひ》するのは不可能。そんな事は百も承知だからこそ、下手な一手は打たず、最適のタイミングを把握して突撃《とつげき》しようとしているのだ。  だが、  真横。 「ッ!?」  上条が息を呑《の》む前に、すでにアックアは五和の真横へ飛び込んでいた。消えた。そう判断するしかないほどの速度で懐《ふところ》深くへ潜り込んだアックアは、五和の頬《ほお》を横から殴《なぐ》るように肘《ひじ》を放つ。  音は聞こえなかった。  ただ上条の視覚が、歩道を越えて車のない車道へ吹き飛び転がる五和の体をかろうじて捉えた。上条はまだ息も吸えない。それでも肺の中に残っている空気を使い、ほとんど反射的に叫ぶ。 「五和!?」 「人の心配をしている場合であるか」  アックアの声が遮《さえぎ》る。  轟《ごう》!! という音がようやく聞こえた。音源はアックアの足から伸びる影。そこから巨大なシャチが海面へ跳ねるように、莫大《ばくだい》な金属の塊《かたまり》が飛び出した。全長五メートルを超す得物《えもの》の正体は、騎士が馬上で使うランスに似ているが、違う。  まるでビルの鉄骨を使ってパラソルの骨組みを組み上げたオブジェ。  それは撲殺《ぼくさつ》用の金属棍棒《メイス》だ。 「行くぞ。我が標的」 「くっ!!」  上条が身構えるよりも早く、アックアの筋肉が爆発的に膨らむ。  避けろ、と頭が悲鳴を上げるよりも何倍も早く、残像すら渦巻かせて真上から巨大なメイスが振り下ろされる。  死ななかったのは奇跡に近い。視界の外から飛んできた五和《いつわ》のバッグが上条の体にぶつかり、彼の体がアックアの予期せぬ方向へ飛んだからだ。  標的を逃した五メートルの鉄塊《てっかい》は空中に浮いていた五和のバッグを軽々と引き裂くと、それ自体がギロチンのように地面へ突き刺さる。  アスファルトで固められたはずの鉄橋。  それが、ズドン!! と一撃《いちげき》で揺さぶられた。あちこちで鉄骨を留めるボルトが破断していく不気味な音が響《ひび》く。ライトアップに使われていた青白い明かりのいくつかが不自然に消えた。しかし上条にそれらに注意を向けている余裕はなかった。隕石《いんせき》が海面に激突したように、アックアのメイスを中小に大量のアスファルト片が周囲に撒き散らされ、その一部が上条の体に直撃したからだ。 「がァああああああああッ!?」  その余波だけで、すでに踏ん張る事もできなかった。  ふわりと足の裏が浮いたと思った時には、すでに上条の体は何メートルも転がされ、鉄棒を支える鉄骨の一つに背中をぶつけて、ようやくその動きを止める事ができた。  バラバラ、という音。  細かいアスファルトの破片が まるで雨のように降り注いでいた。  アックアは鉄骨を重ねたようなメイスを肩に担《かつ》ぎ、倒れた上条の方へ一歩進む。  粉塵が、闘気を可視化したようにアックアを取り巻き、吹き散らされる。  と、そこで彼は眼球だけを横に向けた。  のろのろと起き上がったのは、五和だ。バッグを投げる前に取り出しておいたのだろう、柄《つか》の部分を分解して収納できる海軍用船上槍《フリウリスビア》を組み上げ、その十字の切っ先をアックアに向けて突き付けている。  しかし最初の一撃《いちげき》で相当のダメージを受けたのだろう。唇から赤い血の筋を垂らし、頬を赤く変色させた五和《いつわ》の切っ先は、風に流れる釣り竿《ざお》よりも頼りなく揺れていた。  アックアは笑いもしない。  ただ告げる。 「一組織の全体が束になっても敵《かな》わなかった相手に、その一員が挑んで勝てるとでも思っているのであるか」 「……私にも……意地があります」  その一言に、どれだけの感情と決意が込められていたのか。  対して、アックアは『そうか』と返しただけだった。  それだけだった。 (まずい……ッ!!)  上条《かみじょう》は痛む体を無理に動かし、五和とアックアの間に割り込もうとした。だが思いに反して体は動かない。そうこうしている内に、五和とアックアが近距離《きんきょり》で激突する。  五和の動きは速かった。  しかしアックアはもはや消えていた。気がついた時には五和の腹に鉄骨のメイスの側面が食い込み、そのままアックアは体の向きを変え、遠心力を使って、上条に向けて五和の引っ掛かったメイスをそのまま横薙《よこな》ぎに振り回してきた。  反応する、という選択肢すら頭に浮かばなかった。  金属製のメイスの重量に加えて人間一人分の重さをプラスし、ただでさえ鉄骨に体を預けていた上条の体が決定的に圧迫された。肺から全《すべ》ての空気が吐き出され、そこに鉄臭《てつくさ》い味が混じる。数秒間、押し付けられた体が地面から浮いた。その後に遅れて、まるで地球の重力が数倍に増したようなダメージに襲われ、上条は地面へ崩れ落ちる。  覆い被さるような五和は動かない。上条はぐったりした五和にをどける事もできない。  朦朧とする意識が、その場に君臨する後方のアックアをかろうじて捉える。 (ケタが……違い過ぎる……)  前方のヴェントにしても、左方のチッラにしても、まだ動きを目で見るくらいはできた。攻撃の合間をかいくぐって反撃を放ち、逆にダメージを与える事もできた。  だが、こいつは何だ……と、上条は思う。  後方のアックア。  こいつは本当に同じ人間なのか。  人と人の実力差ではない。まるでネットワークRPGでレベルが一〇〇以上違うキャラクターを相手にしたように感じられる。何かトリックがあって攻撃が効かないのではなく、単純に『実力』がすごすぎて戦いにならない。それでどう勝てと言うのだ。 「右腕だ」  アックアはゆっくりとメイスを頭上に掲げて、告げる。 「差し出せば、命の方は見逃すのである」 「ふ、ざける、な……」  立ち上がろうとしたが、力が出ない。  自分の限界に気づきつつある上条《かみじょう》は、それでも諦めずに力を振り絞ろうとする。  だが、 「そうか。それならば、もう少し現実を知ってもらうのである」      12 (ぅ……)  五和《いつわ》の意識は少しだけ断絶していた。  滲むように戻った意識は、まず始めに鉄臭《てつくさ》い匂《にお》いを感じ取った。次に痛み。頭の芯《しん》がそれを知覚した途端《とたん》、全身から津波のように激痛が押し寄せた。意外にも普段《ふだん》最も頼《たよ》っているはずの視覚や聴覚《ちょうかく》が一番遅くやってくる。  薄暗《うすぐら》い闇《やみ》。  青で埋め尽くされた絶望。  あちこちの鉄骨が引き千切《ちぎ》れ、アスファルトが砕かれ、砂塵《さじん》の舞う鉄橋。  つい先ほどまで二人で歩いていた夜景そのものが引き千切られた惨状《さんじょう》。  そして、手の中にある槍の柄の感触。 「ッ!?」  ようやく状況を思い出した五和は慌てて手をついて起き上がろうとする。  そこで、ぬるりとしたもの掌に感じた。  生温かく、頭の眩《くら》むような鉄臭さ。そして何より真っ赤に染まった液体の正体は単純だ。  鮮血。  しかし五和はそれほど出血していない。というより、これほどの血を流していれば意識を保つ事は難しいだろう。インクや何かの他の液体、とも違う。これは間違いなく人の血だ。  じゃあ誰の血だ、と考えようとして、意識は即座に否定しようとした。  考えるまでもなかった。  上条当麻だ。 「気づいたか」  冷静に考えれば、武器を持った後方のアックアは今もすぐ目の前に立っているはずだった。 「ならばそこをどけ。私の一撃は威力が大きすぎるのである。下手《へた》に本気を出すと周りにも被害を及ぼすのでな」  しかし五和《いつわ》の意識に入らない。彼女はカタカタと肩を小刻みに震《ふる》わせ、ゆっくりと、ただゆっくりと自分の後ろを振り返る。  五和が気を失っていた間、今の今まで寄りかかっていたもの。  ぐったりと力の抜けた上条《かみじょう》の手足。顔は赤く染まっていた。瞳《ひとみ》は開いているとも閉じているとも取れず、まるで壊《こわ》れたオートフォーカスのように半開きのまま停止している。全身を走る激痛は体を引き裂くようなもののはずだ。にも拘《かかわ》らず、もはや少年の体はピクリとも動かない。  生きているのか、死んでいるのか。  それすらも分からなかった。  単に物理的な距離ならぴったりと寄り添っているのに、たったそれだけの事も掴《つか》めない。 「あ……ぁ……」  五和の判断能力が粉々に吹き飛んだ。  後方のアックアという即物的な脅威《きょうい》が完璧《かんペき》に頭から消えた。彼女は敵の前にも拘らず他人の血にまみれた手を動かし、周囲に散らばったアスファルトの破片をかき集め おしぼりを取り出し、血だらけの上条のズボンのポケットに手を入れて財布を取り出した。  天草式十字|凄教《せいきょう》の扱う魔術には、奇怪な呪文や霊薬などは使用しない。  用いるのは、あくまでもどこにでもある日用品だ。  五和はそうした日用品の中に秘められたオカルト的な残滓《ざんし》を組み直し、出血を止め、傷口を塞《ふさ》ぎ、失われた生命力を充填《じゅうてん》するための回復魔術を実行しょうとしていた。五和という少女にとって、今現在ある『問題』と『戦い』は、この少年が生きるか死ぬかの一点だけに絞られてしまっていた。  実際、混乱の極みにありながらも、五和の手際《てぎわ》は驚《おどろ》くほど的確かつ高速だった。  あっという間に回復魔術は発動した。  ぐったりと動かない上条の体から、薄《うす》く淡い光の玉がふわりと舞った。緑色の光は蛍のようにも見える。それらの光は引き裂かれた皮膚《ひふ》の隙間《すきま》を埋めるように潜り込もうとする。  しかし  バン!! という音が聞こえた。  五和が組み上げたはずの回復魔術が、木っ端微塵《ぱみじん》に、残滓も残さずに消滅した。  原因は明確。 「……ぅ、あ」  五和はのろのろとした動きで、上条の顔から、垂れ下がった右手へ目を向ける。  右手。  幻想殺し《イマジンブレイカー》。  あらゆる不可思議な現象を、善悪問わずに打ち消してしまう特異な力。 「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  五和《いつわ》は絶叫し、さらに破壊《はかい》されたはずの回復魔術《まじゅつ》を組み直す。だが無意味。発動した途端《とたん》に魔術は破壊され、また組み上げては破壊される。どこにでもある日用品を使っているとはいえこうも無駄遣《むだづか》いをしていればあっという間に消費されていく。気がつけば、回復魔術に扱えそうなものは残っていなかった。 「もう良いか」  いつまで経ってもあがきをやめようとしない五和に、アックアは言葉を投げかける。  しかし五和はまともに受け答えもできない。  延々と叫び続ける事しかできない五和に、アックアはそれ以上何も言わなかった。  何も言わないままその大きな足を振り上げ、うずくまる五和の背中の上から踏み潰した。  ベゴォ!! という轟音と共に絶叫が止まる。  暴力的な音と共に、彼女の手足から力が抜ける。意識が断たれたようだった。 「ふん」  地面に崩れ落ちた五和になど目も向けず、アックアは改めて巨大なメイスを構え直す。  本来の仕事。  狙うは気を失った上条の右肩。  しかしアックアのメイスは振り下ろされなかった。  彼が手心を加えたのではない。  全身に傷を負い、体の芯《しん》までダメージを蓄積し、意識を失っていたはずの五和が、ドロドロの手を動かして己の槍《やり》を掴《つか》み、勢い良く立ち上がったからだ。  奇《く》しくも、上条とアックアの間を遮《さえぎ》る壁のように。 「ぐっ、がっ、ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  内臓を震動《しんどう》させるその叫びはまさしく死力だった。今の五和はもう勝算などを考えていない。血走った目を見れば そんな余裕は残っている訳がないのは容易に想像がつく。  死なせたくない。  奪われたくない。  立ち上がりたい。  ただそれだけで動いているだけだ。  ロから血の塊《かたまり》を吐《は》き出しながら、五和の瞳《ひとみ》にこれまでにない粘ついた眼光が宿る。  アックアは退屈そうに息を吐いた。  そうしながら、ゆっくりとメイスを握る腕が膨らんでいく。恐るべき筋肉の力で、鋼鉄でできているはずのメイスの柄《つか》を潰しかねないほどに強く固く握り締める。  アックアは五和を敵と認識したのではない。  邪魔な五和ごと一撃で上条を粉砕しようとしているだけだ。  五和は唇を噛《か》んだ。  その雑な扱いを彼女は認識していた。  そして、雑に扱われるだけの実力差が開いてしまっている事も。 (……、)  しばし、五和は黙《だま》り込んだ。  単にロを動かさないのではない。頭の中においでも静寂。心の中が何も生まない奇妙な空白。 それはある種の覚悟か、あるいは諦《あきら》めか。一瞬《いっしゅん》後に全《すべ》て思考を取り戻した彼女は、ふらふら揺れる切っ先を、それでも明確にアックアへ突き付けた。  死地へ挑む者が放つ、ただ純粋な宣戦布告。  五和の中に残されたわずかな力が、一ヶ所へと集約されていく。  静寂は唐突に破られ、そして結未はやってくる。 「ありがとう、五和」  五和の決意を砕いたのはアックアの一撃ではなかった。  それは彼女の肩に後ろからそっと置かれた、とある少年の弱々しい手だった。  五和の小さな体が、その一言にビクリと震《ふる》えた。  彼女は振り返れない。  肩に置かれた手はボロボロのはずだ。  だが五和の脳裏に浮かぶのは、ただ優しい顔。 「お前の回復|魔術《まじゅつ》のおかげで、ちょっと元気が出た」  そんなはずがなかった。彼の|幻想殺し《イマジンブレイカー》はあらゆる魔術を砕いてしまう以上、五和の回復魔術など何の意味もないはずだった。  実際、少年の声は絞り出すように小さなもので、声域も頼《たよ》りなくふらふらと揺らぎ、今にも消え入りそうに感じられた。  にも拘《かかわ》らず、その短い言葉には温かさがあった。  五和は思わず崩れ落ちそうになるが、直後に少年が何を考えているかを知り背筋に悪寒《おかん》が走る。  何故《なぜ》、このタイミングで立ち上がったのか。  指先を動かす事すら難しい状況で、どうして無理に立ち上がったのか。  そして、後方のアックアへ飛びかかろうとした五和を引き止めるように肩へ手を置いた上条の真意は。 「待———ッ!!」  声を出す暇もなかった。  少年は五和《いつわ》の肩に置いた手に力を込めると、まるで五和と立ち位置を交換するように、一気に前へ飛び出した。ボロボロの体を動かし、後方のアックアへ向かう上条《かみじょう》の背中を、五和は止められなかった。中途半端《ちゅうとはんぱ》に決意を砕かれたせいで、精神力によって支えられていた体の力が抜けでしまったのだ。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」  いくらあの少年が戦闘《せんとう》の素人《しろうと》とはいえ、後方のアックアに勝てない事ぐらいは分かっているだろう。  あの少年の狙《ねら》いはそこではない。  後方のアックアは、最初から標的は上条一人だと言っていた。周囲に展開していた天草式《あまくさしき》の本隊も殺していないと言っていた。つまり一刻も早く戦闘の決着を着ければ、周りへの被害は減る。  例えば、  すく側《そば》にいる五和は死なずに済む。 「……ッ!!」  その背中を目で追う事しかできない五和の表情が歪《ゆが》む。  彼女のまぶたから透明な液体がこぼれる。  五和は何かを叫んだが、上条は振り返らなかった。  振り返らないまま、一直線にアックアの元へと飛び込んだ。 「良い度胸である」  後方のアックアはそれだけ言った。  そうして、五和の見ている目の前で、恐るべき一撃が放たれた。鋼鉄で作られた、全長五メートル以上もの巨大なメイスが横に振るわれ、少年の脇腹《わさばら》へ容赦《ようしゃ》なく突き刺さる。人体にぶつけるものとは思えない轟音が炸裂し、橋を作る鉄骨の柱とメイスの間に挟まれた少年の体から、全《すベ》ての力が奪われた。決死の思いで握られた拳《こぶし》は、アックアに向かって放たれる事すらなかった。  今度こそ完璧《かんぺき》に意識の消えた少年の体が、巨大なメイスに寄りかかる。まるで布団を干すような格好になった少年を見て アックアは笑う。  敗北者の奮闘を讃えるように。  少女のために死地へ赴《おもむ》いたその勇気を、認めるかのように。 「一日待つ」  アックアは、意識を失った少年を引っ掛けたまま、腕一本で緩《ゆる》やかに巨大なメイスを振り回す。 「麻酔もなくここで引き抜かれるのも酷だろう。義手の準備でもしておくが良い。期限までに騒乱《そうらん》の中心———その元凶たる右腕を自ら切断し、我々に差し出すと言うのならば、その命は見逃してやるのである」  それだけ言うと、アックアは無造作にメイスを横へ薙いだ。 『神の右席』にして、聖人としての資質をも兼ね備えた怪物の一撃《いちげき》。  メイスに引っ掛かっていた少年の体が、砲弾のような速度で鉄橋から飛んだ。手すりを飛び越した体は数百メートルも真《ま》っ直《す》ぐ突き進み、暗く冷たい水面に激突すると、そのまま沈まずに跳ね飛んだ。あまりの速度に少年の体は二回、三回と水面の上を跳ね跳び、最後には川を流れていたクルーザーのすぐ横に沈み、まるで爆風のように川の水を盛大に撒き散らす。  ドッパァァン!! という轟音《ごうおん》が少し遅れて炸裂《さくれつ》した。  詳しい生死を確かめもせず、後方のアックアは五和《いつわ》に背を向ける。  彼は最後に、もう一度言った。 「一日待つ」 [#改ページ]   行間 一  何だ、眠れないのか。  それじゃじーちゃんが話でもしてやろうな。ん? じーちゃんの話は長くてつまんないって。 だからさっさと眠たくなるんだろ。  ええと、それじゃ|占星施術《せんせいせじゅつ》旅団について話すか。  ああ、そうそう。昔はそういう名前で呼ばれていたんだよ。やってる事は今と変わんないかな。そうだよ。お前がガキんちょなりに人のお手伝いをしている、あれと一緒《いっしょ》。一応は十字教系の魔術《まじゅつ》結社で あっちこっちで人から相談を開いて、状況に会わせてこっそり魔術を発動する。そんな集まりだ。  ただ、昔は依頼《いらい》の数が圧倒的に多かったな。嘘《うそ》じゃないぞ? 国中の人達《たち》に頼《たよ》られたんだ。何しろ依頼のために集まる人があまりにも多いから一ヶ所に留《とど》まれないってんで、じーちゃん達は何年もかけて、ゆっくりとロシア全土を回るような生活をしていたぐらいなんだからな。  ところが、まあ、トラブルってのはどこにでもあるもんでな。  厄介《やつかい》なのに目をつけられちまった。  いやいやいやいや、断っておくけど、ロシア成教全部が悪いって訳じゃないんだぜ。ただ、その馬鹿《ばか》野郎はロシア成教の一部門を完全に私物化していやがってな。おかげでじーちゃん達はプロの戦闘《せんとう》集団相手に追いかけっこをする羽目になっちまったんだ。  馬鹿野郎の名前?  じーちゃん達を捕まえてどうするつもりだったのかって?  そいつはガキんちょには教えられないな。曲がりなりにも一国家の暗部ってヤツだ。教えるのは簡単だけど、そうなったら子供だって容赦《ようしや》はない。おいそれと吹聴《すいちよう》して良い内容じゃないって訳だ。  とにかく、ロシア成教の追っ手ってのはおっかなくてな。そもそも人間の範疇《はんちゆう》にいない幽霊《ゆうれい》だの妖精だのと戦うために編成されたガチの化け物だ。『お手伝い』業務のじーちゃん達じゃまともにぶつかってもどうにもならない相手だった。圧倒的なんだな。  だから、じーちゃん達は国外へ逃げる事にしたんだ。不幸中の幸いにも、ヤツらはロシア成教。つまりロシアの国境から出ちまえば何とかなる。希望ってのはすごいもんでな。一掴《ひとつか》みの藁《わら》があれば、人間はいくらでも頑張れるものなんだよ。  でも、辺りはマイナス五〇度の地獄でな。国境までは何十キロもある。いやぁ、大変だったよ。なんていうか、もう痛みとかそういう世界じゃないんだな。ただ足の裏が重たくなっていく感覚しかないんだよ。そんな中を延々と徒歩で歩くんだ。じーちゃんみたいな老人も お前よりも小さなガキんちょも、みんな平等に。お前なんか、かーちゃんのお腹《なか》の中にいたんだぞ。かーちゃんが怪力なのは多分あの時のせいだな。  そんな状態なら、ロシア成教の追っ手だって動けなかったんじゃないかって?  違うんだな。連中は、そういう永久凍土の中で動くために訓練された、本物のプロなんだ。まるで機械とか人形みたいに規則的に動きやがる。しかも兵士も一流なら、装備も一級品だった。ヤツら、金属の馬を使うんだ。あれは八本足の馬だったかな。そうだよ、確かスレイプニルとかってコードネームで呼ばれている霊装《れいそう》だ。 じーちゃん達とロシア成教の速度なんて、一目瞭然だった。  吹雪《ふぶき》に霞《かす》む視界の向こうにうっすらと国境が見えるだろ。でも分かるんだ。あそこに辿《たど》り着く前に、ロシア成教の追っ手に捕まっちまうって。もう見えているのに届かない希望。みるみる後ろから近づいてくるのに、どうする事もできない追っ手の影。諦《あきら》めるしかないって思うだろ。無駄《むだ》な努力をするぐらいなら膝《ひざ》をついた方が楽だって思うだろ。でも、できないんだ。なまじ目の前の国境っていう希望が見えちまうと、諦める事すらできないんだ。  ん?  その後どうなったのかって。  そりゃお前、何とか逃げ切ったよ。そうでなけりゃじーちゃんはここにいないし、お前だって生まれていないだろ。どこが引っ掛かっているんだ? そっかそっか。  どうやってロシア成教の精鋭から逃げきったのか、それが分かんないのか。  そいつは簡単だよ。  じーちゃん達の前に、『ヤツ』が現れたんだ。  ウィリアム=オルウェルがな。 [#改ページ]   第二章 敗北から立ち上がる者達 Flere210. 1  夜の病院に慌ただしい音が響《ひび》く。  ここは第二二学区第七階層にある、救命救急病院だ。  患者を乗せたストレッチャーの小さな車輪がガチャガチャと鳴る。複数の救急隊員がそれを取り囲みながら進み、音の塊《かたまり》は救急外来から建物の中へ。ストレッチャーを押す手が救急隊員から医師や看護師へバトンタッチされ、集中治療室に入り、さらに手術室の扉の中へと消えていく。 「……何とか、終わりました。正直、安定した容態とは言い難《がた》いですが」  手術室から出てきたストレッチャーが再び集中治療室へと戻っていくのを見届けながら、若い男の医者はそう言った。  面会時間の終わった病院の廊下は寂しいものだ。  しかし現在、薄暗《うすぐら》い廊下には複数の人影がいた。大勢、と呼んでも良いかもしれない。老《ろう》若男女《にゃくなんにょ》、合わせて五〇人前後の人間が壁に寄り掛かったり、ソファに座ったりして医者の言葉に耳を傾けている。その大半が衣服のあちこちを破き、包帯を巻いていた。しかも白い布の上からじわりと赤いものが渉み出ている者も多い。  彼らは『天草式《あまくさしき》』と名乗ったが、それが具体的にどんな組織を差しているのかは、若い男の医者には分からない。有り体に言えばとてつもなく胡散臭《うさんくさ》い集団なのだが、スキルアウトの大物などが入院したりすると、やはりこんな風に不良少年達で待ち合いロビーが溢れ返る事もたまにある。なので、若い医者はあまり深入りしないようにした。 「大雑把《おおざっぱ》に言って、普通の人間なら絶対安静、といった所でしょうか。細かい内訳で言うと、まずは全身打撲と脳震盪《のうしんとう》後は右肩、左足首の関節が脱臼しています。後は内臓も圧迫されていて」 「……つまりは、予断を許さないって訳よな?」  クワガタみたいな光沢の黒髪の大男が、慎重に言葉を選びながら尋ねてきた。  医者は重たい息を吐いた。 「不幸中の幸いとでも言うべきでしょうか……。一番怖かったのは長時間水の中にいた事によって、脳へ酸素が回らなくなっていた危険性ですが……こっちはダメージは少なそうです」  電子情報化されたカルテらしきものを見ながら、若い男の医者はスラスラと続ける。 「しかし……複数の目撃《もくげき》証言があるとはいえ、にわかに信じられない『原因』ですね。人間の体を鉄橋の上から数百メートル吹き飛ばし、川の水面を何回もバウントさせて、水の中に叩き込むなんて……。状況そのものも信じられませんけど、それだけの大惨事《だいさんじ》に巻き込まれて、まだ峠《とうげ》の途中でふらふらできるという事が奇妙としか言えません」 「手加減されたんだ……」  暗い廊下で、誰《だれ》かがボソリとそう言った。  若い男の医者はそちらを振り返るが、誰が言ったか分からなかった。彼らはおかしな集団で病院の中では圧倒的に浮いているのに、誰も彼もが『突出』していない。『群衆という風景』のように見えるのだ。しかも『五〇人近い包帯を巻いた集団』であるにも拘《かかわ》らず、だ。 「とにかく、まだ全《すべ》てが終わったって訳じゃねえのよな」  唯一『突出』しているクワガタ男が、念を押すように医者に聞いた。 「話ができれば、一言だけでも謝っておきたい所なのよ」 「なっ、何を言っているんですか!? 絶対安静に決まっているでしょう!? そ、その、何に対して謝るのか存じませんけど、今は得策じゃありません。麻酔でぐっすり眠っていますし、仮に麻酔の影響がなかったとしても、体力レベル的に覚醒《かくせい》するとは思えませんよ。今は休ませてあげるべきでしょう」  それに何より、と若い男の医者は顎《あご》で集中|治療室《ちりようしつ》を差した。  外からでも患者の変化を逐一《ちくいち》確認できるようにするためか、集中治療室の壁はガラス張りで、廊下からでも数名の患者が寝かされているのが見えた。大量の機械に囲まれたベッドの一つに、ツンツン頭の少年が横たわっている。  クワカタ男は若い男の医者に促されるように集中治療室に目をやり、そこでわずかに表情を曇らせた。  ベッドに寄り添うように、あるいは床に跪《ひざまず》くように、一人の少女が佇《たたず》んでいた。患者の掌《てのひら》を両手で包み込むように握っているのは、白い修道服を着た少女。  インデックスだ。 「……こいつは医者としての経験ですが、そっとしておくべきだと思います」  若い男の医者は感情を消したような顔で、そう警告した。  クワガタ男も、あの中に割って入るだけの度胸はないらしい。黙《だま》って頷《うなず》くのを確認してから、若い男の医者は廊下を歩いて立ち去った。  クワガタ男———建宮斎字《たてみやさいじ》は、集中治療室のガラス壁から一歩だけ身を退《ひ》いた。  本当に悔しいが、あの少年に対してできる事は何もなかった。天草式に伝わるあらゆる回復や治癒《ちゆ》の魔術《まじゅつ》も通じない。せいぜい無事を祈るくらいが関の山だが、それにしたって、祈るだけの資格があるかどうか。  後方のアックアから身を守ると言っておきながら、実際には文字通り「蹴散《けち》らされた」。片手間のような攻撃《こうけき》でボロボロにされた建宮達《たてみやたち》は、標的へ向かっていくアックアを地面に倒れながら見届けるしかなかったのだ。  その上、最後は護衛対象自身が天草式《あまくさしき》の『仲間』らを守るために戦って……この有り様だ。あちこちに巻かれた包帯や、貼《は》り付けられたガーゼ。一般人には分からないだろうが、魔術的《まじゅつてき》な観点からは一目瞭然。今の天草式は、平時のように環境と一体になる事すら薄らいでいる。  今の天草式は、何もかもに負けていた。  後方のアックアからも、そしてそれ以上に、上条当麻からも。 「……、くそったれが」  建宮は奥歯を噛《か》む。  どれだけ打ちひしがれようが、敵は待たない。五和《いつわ》の話によると、後方のアックアは一日後に上条当麻の右腕を切断して渡さなければ、再び上条を襲撃《しゆうげき》すると伝えてきているという。当然ながら、右腕も、襲撃も、そのどちらも許せるはずがない。  やるべき事は分かっている。  上条当麻を守るために、何があっても立ち上がるべきだ。 「で、お前さんはそこで何を蹲《うずくま》ってんのよ」  建宮が問いかけると、薄暗い廊下の中でも、さらに光の少ない、ほとんど黒い塊《かたまり》のようになった一角で、ビクリと小動物が震《ふる》えるような気配があった。  目を凝らさなければ分からない。  しかし、ソファの隅で小さくなっているのは、間違いなく五和だ。  手足には包帯、右頬《みぎほお》を覆《おお》うような四角いガーゼ。痛々しい事この上ないが、肉体的な分かりやすい傷などとは比べ物にならないほど、彼女の精神は打ちのめされていた。 「……わ、たし……」  声は不安定で、しゃっくりのようなものが混じっていた。鳴咽《おえつ》。あまりにも涙をこぼしすぎたせいで、横隔膜《おうかくまく》の制御がおかしくなっているのだ。 「……私、守るって……そう言って。槍《やり》だって、魔術だって……何の役にも、立たなかったのに……ありがとうって、言ってくれて……。少しも守る事ができなかったのに、立ち去るアックアに一矢を報いる事もできなかったのに……ありがとうって……」  ボタボタ、という音が聞こえる。  それは涙かもしれないし、握り締められた掌《てのひら》から血がこぼれているのかもしれない。 「私……あの人の話を聞いた時、なんてすごい力を持っているんだろうって、思いました。でも違ったんですよ。あの人は、どんな防御術式に頼る事もできない。どれだけの回復魔術があっても、掠《かす》り傷一つも治せない。本当に、体一つで戦っていただけなのに……」 「五和……」 「私、そんな人を見殺しにしたんですよ」  その時、五和《いつわ》は笑っていたかもしれない。  くずぐずと鼻を鳴らしながら、その顔には笑みのような歪《ゆが》みが見えた。 「そんな人間が、何で一人だけのうのうと生きているんですか。被害者の集まりの中に一人だけ変なものが混じり込んで、何で天罰《てんばつ》って降り注がないんですか!? こんなのはおかしいんです。私の方があのベッドで眠っているはずだったのに!! それで全部解決していたはずなのに!!」  一つの言葉の中で強弱が曖昧《あいまい》に揺れる。それは相談であり、独り言であり、懺悔《ざんげ》であり、八つ当たりであり、負け犬の泣き言であり、猛獣が放つ咆哮《ほうこう》でもあった。  自分で自分の感情を把握しきれていない。  そんなものに気を回す余裕がないほどに、五和は追い詰められている。  それを知り 建宮《たてみや》はわずかに目を細めながら、闇《やみ》を裂くように五和の元へと踏《ふ》み込んだ。 「立つ気はないのか」 「……、」 「お前さん、一体そこで何をやってんのよ?」  建宮は軽く言いながら、しかし五和の胸倉を片手で掴み上げた。周りが何か言うより前に、恐るべき筋力で吊り上げると、そのまま手近な壁に勢い良く叩《たた》きつける。  バコン!! という凄まじい音が鳴り響いた。  五和の背中に衝撃《しようげき》が走り、呼吸がおかしくなる。だが五和は、抵抗らしい抵抗を何もしなかった。ただあえぐように酸素を求め、涙に濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》で建宮を睨み返している。 「……さん、だって……」  息も絶え絶えに、しかし五和は唇を動かした。 「建宮さんだって、負けたじゃないですか」 「———、」  醜《みにく》い言葉だと言うのは、彼女自身気づいているだろう。そして本来、建宮に怒りをぶつけるべきではない事も。それでも彼女が建宮に刺《とげ》のある言葉を放ったのは、もうそれくらいの事をしないと自分の精神が耐えられないからだ。きっと五和という少女は、本当にあの少年を守りたかったのだろう。心の底から約束を果たしたかったに違いない。そして、その想いは、圧倒的な力によって粉々に打ち砕かれてしまった。  建宮は、無理に理解しようとしなかった。  その感情は、おそらく五和だけが理解するべき大切なものだ。  だから代わりに、彼はこう言った。 「こんな女を助けるために、あいつは体を張ったのか?」  その言葉に、五和の目が大きく見開かれた。  刃物を刺されたかのような表情。壁に叩きつけられた時にも苦痛を表現しなかった顔が、建宮の言葉でグシャグシャの痛みを表していく。 「テメエの身内を目の前で痛めつけられて、ボロボロになった命の恩人を前にして……まだ動こうともしない。本当に、そんな女のためにあいつは命を投げ出したっていうのか。だとしたら、そいつは犬死にってヤツなのよ。正真正銘《しようしんしようめい》の犬死にだ。ハッ。結局シンプルじゃねえの。こりゃあ馬鹿《ばか》が馬鹿を助けて馬鹿をやったって事なのよな?」  五和《いつわ》の頭に、カッと熱が籠った。彼女は吊《つ》り上けられたまま、獣《けもの》のような叫び声をあげて建宮《たてみや》に拳《こぶし》を打とうとする。しかしその前に、建宮は壁に押し付けていた五和の体を、思いきり床へ振り下ろした。  ズン!! と地響きすら錯覚させる大音響だった。  再び呼吸困難に陥《おちい》る五和の上へ馬乗りになり、建宮は彼女の目を見る。 「良いか。分かんねえようなら教えてやるのよ」  低く、ただ低く。  建宮斎字の声色には、怒りの火が灯る。 「———後方のアックアは 必ず来る」  ビクリと五和の体が震えた。  目を逸らしたいほど分かり切っている事を、建宮はもう一度再確認させる。 「俺達《おれたち》がこうしてグタクダ悩んでいる今も、タイムリミットは確実に迫ってるのよな。一秒一秒の無駄《むだ》が、ただでさえ低い幸福の確率をより一層引き下げちまうのよ! お前さんはそんな事を許せるのか。まだ可能性は残ってるのに、たとえどれだけ少なくても確実に残っているのに、そいつをつまんねえ後悔や罪悪感で全部捨てちまうのか!? そうやって勝手に諦められたあいつは、何も知らないままに右腕をぶち切られちまうのか!? 笑顔を守りたければ立ち上がれ。自分の都合で他人の人生を投げ捨てるんじゃないってのよ!!」  ほとんど咆哮《ほうこう》に近い叫びだった。  何も言わない五和に向かって 建宮はさらに言う。 「……助けを呼んで助けが来るなら、俺達だってそうするのよ。あの『聖人』が、女教皇様《プリエステス》が来てくれるって言うなら、後の事は全部任せられる。でも、そんな都会の良い事なんてありえねえってのよ。良いか。———後方のアックアは、必ず来る。お前さんは、この病院を戦場にしたいのか。つまんねえ現実から逃避《とうひ》するために!!」 「たて、みや……さん」 「黙《だま》ってたってアックアは止まらねえ!! 助けを求めてもイギリス清教が今から作戦を変更して増援を送ってくれるなんて都合の良い事は起きねえってのよ!! だったら動ける者が動くしかねえ。今ここで戦えるのは俺達だけだ!! 惨《みじ》めだろうが何だろうが、今ここにいる俺達が動かなかったら、今も麻酔《ますい》で眠らされているあいつは一体誰《だれ》に守ってもらうのよ!! そいつが分かってんのか!!」  五和《いつわ》の胸倉を掴《つか》む建宮《たてみや》の手が、ギリギリと音を立てた。  本当に、自分の手を壊《こわ》してしまいかねないほどの力だった。そして、五和は知る。怒りを覚えているのは、己を恥じているのは、自分一人ではない事に。全員が上条当麻を守ろうとして、全員がそれに失敗してしまった事実を受け止めている事に。  彼らは、それでももう一度立ち上がると言った。  負け犬の恥を知りながら、蹲《うずくま》るのではなく、立ち上がると言ったのだ。  大切なものを守るために。  ならば、 (わ、たし……は……) 「あいつに謝りたいか?」  目を見て語る。 「あんな風にしちまった『守るべき者』を、もう一度陽《ひ》だまりの中に帰したいか?」  五和は咳《せ》き込む事も忘れて、小さく頷《うなず》いた。  何かを言ったが、それは鳴咽《おえつ》に震《ふる》えて開き取れなかった。 「……だったら戦え。お前さんが最高に良い女である事を証明して こんなヤツのために命を張って良かったって思わせてやれ。謝るにしても、笑うにしても、そいつは命がなくちやできない事なのよな。墓前で懺悔《ざんげ》をしたくなけりゃ、俺達《おれたち》は戦うしかねえのよ」  建宮は五和の胸倉から手を放すと ゆっくりと起き上がった。  周囲を見回し、確認を取るように言う。 「……この中に、五和と同じ事を言う馬鹿《ばか》はいるか?」  後悔と無力感によって徹底的《てっていてき》に沈み込んだ空気を打ち破るように、建宮の声が通る。 「いるって言うんなら、前に出ろ。目を覚ましてやるのよ」  返事はなかった。  しかし覚悟はあった。  後悔と無力感が消えた訳ではない。だがそれ以上の戦う意思があった。  建宮は薄暗《うすぐら》い病院の廊下に佇《たたず》む五〇人近い仲間達を改めて眺めて、こう言った。 「いないって言うなら、それで良い。後は全力を尽くすだけなのよ」  天草式十字凌教の面々は振り返らない。  集中|治療室《ちりようしつ》に一人の少年と一人のシスターを残し、彼らは再び強敵と立ち向かうため戦場へ戻っていく。 「ったく。救われぬ者が目の前にいて、これに手を差し伸べねえって事はねえのよなあ」  やるべき事は、ただ一つ。  王手のかかった盤をひっくり返し、少年の命を守り抜く事のみ。      2  夜の暗い闇《やみ》の中に、後方のアックアは佇ん《たたず》でいた。  第二二学区第三階層の市街地からはやや離れた一角にある、自然公園だ。彼がここにいる理由は単純で、少しでも科学技術に溢《あふ》れた人工物から遠ざかりたかったからだ。もっとも、ここにある森林も水栽培技術を応用した科学の塊《かたまり》である事に気づかされ、落胆している最中でもあるのだが。 (そもそも、この空間全体からして人工的な地下空間だったのであるか)  頭上を見上げれば星空が広がるが、それらもプラネタリウムのスクリーンに映る幻。少しでも魔術《まじゅつ》を知る者なら、その差に気づくだろう。  あまり維持費をかけていないのか、ライトアップもまばらな闇の中に、小さな四角い光がある。  アックアの持っている携帯電話だ。  話し相手はローマ教皇。しかし彼らは携帯電話の電源を入れていない。アンテナ部分の先端《せんたん》に光っているのは、あくまでも魔術による光だった。 (これでも傍受の危険は拭《ぬぐ》えんか。一応、天草式とかいうイギリス清教の尖兵《せんペい》もいたようであるしな)  とはいえ、科学サイドの総本山で馬鹿《ばか》正直に電話を使うよりかはマシだろう。 『それにしても、殺すのをやめて右腕を奪うに留《とど》まるとはな。「神の右席」は己の方針を変えないものだと、前方のヴェントからは聞いていたが?』 「あれはヴェントの性格的な問題である。実際には各々《おのおの》の局面に応じて臨機応変に立ち回っているものである。……テッラの場合、それが行き過ぎて暴走したがな」  同じ組織の同僚を惨殺《ざんさつ》し、その死体を敵対組織の元へ郵送したアックアだが、そこには後悔や罪悪感らしさものは窺《うかが》えない。 「実際、あの少年の特異性は『右腕』に集中している。それを奪えば脅威《きょうい》は排除されるであろう。ただの未成年にかまけているほど、我々は暇ではないのである」 『私としては、そちらの方が好ましくもあるがな』  ローマ教皇が、電話の向こうでわずかに笑った気がした。 『これは以前ヴェントにも言った事だが……自らの意志をもって明確に神の敵となったのならば粉砕するしかないが、件《くだん》の少年は未《いま》だ神を知らぬと聞いた。それをただ殺してしまうというやり方には正直、反発がある。……ヴェントには鼻で笑われたがな』 「……私に何を期待しているかは知らぬが、私は貴方ほど善人でも博愛主義者でもない」  アックアの声が、平坦《へいたん》なものになる。 「殺すべき時が来たら殺す。今はその時ではなく、そしてその時が訪れれば殺すだけだ。いくつかの選択と時の運が重なれば、その時が訪れない未来もあるであろう。それだけの話である」  彼の言葉に嘘《うそ》はない。  世界でたった四人しかいない最高組織。その数少ない同僚である左方のテッラを容赦《ようしや》なく瞬殺《しゅんさつ》したのは、後方のアックアだ。 『右腕』が消失した事で、敵性が失われればそれでよし。  それでも駄目《だめ》なら、あるいは『右腕』の提出を拒めば———後は簡単だ。  消す。  言葉にすればあっけなく、そして言葉以上にそっけない一撃《いちげき》で、アックアは全《すべ》てを土に還《かえ》すだろう。  彼にはそれだけの力と覚悟があるのだから。  後方のアックアはそれを認識しつつも、表情が動く事はない。 『奇妙な状況だな』  ふと、ローマ教皇がそんな事を言った。 『代々の教皇の「相談役」として設立された「神の右席」が敵地の中心へ踏《ふ》み込み、この私がバチカンから傍観とは』  十字教は一神教だ。  神は一柱しかおらず、全ての奇跡はその一柱によって集中管理される。絶対的な神に抗《あらが》える者はいないのだから、本来ならば世界の全ては幸福に満たされるはずであり、不幸な人が現れる事はないはずなのだ。  だがしかし、現実にはどうか。  歴史を省みれば分かるだろう。十字軍遠征の失敗、ペストの流行、オスマントルコ勢力の拡大。個人の幸不幸どころか、ヨーロッパ全土が死滅しかねない転換期など、幾度もあった。  教皇一人の手に余る。  かと言って、『神は絶対』を掲げる十字教の象徴たる教皇が、何者かに相談するという事自体が、ある種の不祥事とも言える。  そこで生み出されたのが『神の右席』。  時に教皇すら頼りにするほどの知識と力を保有する事を求められた、十字教社会のピラミッド構造に寄り添う特殊な『相談役』。  枢機卿《すうききょう》、執政、軍師。そういったものとは全く異なる、そもそも『ピラミッドの中に存在すらしない』、声なき助言を与える者としての役目を全うする存在。  その座は常に四。天使の中で特に重要な四大天使に対応する『右席』のメンバーは、必要に応じて『中身』だけを次々と入れ替える事で存続する。  だが、状況が状況だったとはいえ、時の教皇達は『影の相談役』 に頼り過ぎたのかもしれない。いつしかローマ正教は、『神の右席』を中心に据えてしまっていた。  アックアはその事を少しだけ考えた。  だが、特に言及するような台詞は吐かなかった。 「次に連絡を入れるのは、事後の報告であろう。例の標的が生きるか死ぬかはさておいてな」  その時、大きな音によって彼の言葉は遮《さえぎ》られた。  原因は大気。  闇《やみ》の色に紛《まぎ》れるように、何かがチカッと瞬いた。それは常人の感覚器官では捉えられないほど小さな光。アックアはそこに危険を察知すると、携帯電話を肩と耳で挟んだまま、気軽に飛び下がる。  空気がひとりでに渦を巻き、つい先ほどまでアックアの立っていた空間が 地面ごとまとめて抉《えぐ》られ、削れて消える。  奇怪な現象に眉《まゆ》をひそめるアックアは、やがて一つの予測を立てる。 (……空気中に何らかの微粒子を散布し、物質を分解しているのであるか)  彼が科学に詳しい者なら、『オジギソウ』というナノサイズの反射合金を思い浮かべた事だろう。回路も動力もなく、特定の周波数に応じて特定の反応を示す極小の粒。それはテレビのリモコンを使ってラジコンを操るような感覚で、動植物の細胞を一つずつ毟《むし》り取る事もできる。  アックアが見えない魔手に警戒していると、今度は人工的な夜空を作る巨大プラネタリウムのスクリーンに異変が生じた。甲高いブザーと共に一面に警告メッセージが流される。 『第三階層全域で無酸素警報が発令されました。住民の皆様は速《すみ》やかに災害対策指定を受けた建物に避難《ひなん》するか、各家庭に設置された酸素ボンベを装着してください。繰り返します、第三階層全域で無酸素警報が発令されました———』 「なるほど」  アックアは不敵に笑う。 「どうやら、向こうはこの階層全域に攻撃用の微粒子を散布し、私の逃げ場をなくすつもりであるらしい」 『まずい状況かね』 「そう見えるか?」  アックアが口の中で唱えると、空気中の水分が彼の味方となる。水分に触れる動きを感知し、彼は大雑把《おおざつぱ》に『オジギソウ』の散布パターンを推測していく。  すると今度は周辺の茂みからガサリという葉の擦《す》れる微《かす》かな音が聞こえてきた。目を走らせれば木々の合間から駆動鎧《バワードスーツ》の装甲が月の光を照り返している。少し離《はな》れた所からは別種の駆動音も聞こえる。ガソリンエンジンと電気を使い分ける、都市型短期警戒用の装甲車も用意してきたらしい。  彼は笑いもしなかった。 「戦力調査の小手調べ、か。ならば|傭兵の流儀《ハンドイズダーティ》というものを紹介してやるのである」 『無闇な殺生は控えてほしいものだがな』 「詳しくは知らないが、全て無人機というヤツであろう。人間らしい気配がない。だからこそ、ここまで近づかれた訳であるが」  ブォン!! という新たな音が炸裂《さくれつ》する。  アックアが足元の影から五メートル以上の全長を誇る特大のメイスを取り出した音だ。 「それにしても、素晴らしいのであるな。学園都市というものは」  ズシリと重たい鉄塊《てつかい》を肩に担《かつ》いで彼は言う。 「わざわざ血を流さぬ戦場を作るとは気が利く。肩を慣らすにはちょうど良いのである」  声に応えるように、敵の集団が動く。  夜の公園の一角で、アックアを中心に複数の影が取り囲む。  無数の弾丸が襲《おそ》いかかった。  肉眼では見えないレベルから『オジギソウ』が喰らいついてきた。  しかしアックアは倒れない。  弾丸を避け、『オジギソウ』を吹き飛ばし、時に『オジギソウ』の力を借りて軌道を不自然に捻《ね》じ曲げる弾丸にまで正確に対処し、即座に反撃《はんげき》へ移る。 (科学の仕組みは分からんが、どこかに現場で指揮を執る者が隠れているはずである)  アックアは一息で包囲網を突き抜け、彼の持つ五メートル以上の長さのメイスが脚のように装甲車の側面に刺さる。彼はその重量を無視して装甲車ごとメイスを振り回し、無数の駆動鎧《パワードスーツ》を吹き飛ばす。アックアはさらにメイスを地面へ振り下ろし、先端《せんたん》に引っ掛かっている装甲車を木端微塵《こつぱみじん》に爆破させ、滞空する『オジギソウ』を牽制《けんせい》させた挙げ句、どういう術式を使っているのか、燃え盛る炎の中からアックアは平然と歩いてくる。 (ならば、全ての駆動鎧《パワードスーツ》の装甲を毟《むし》り取り、装甲車のボディをこじ開けて、片っ端《ぱし》から確認するまでである!!) 『神の右席』後方のアックアが動く。  轟音《ごうおん》と破壊《はかい》が全てを支配する。      3  日本とイギリスの間には約九時間の時差がある。  現在、日本は深夜と呼ばれる時間帯のはずだが、ロンドンではまだ夕方だ。もっとも、緯度の関係で、秋や冬の場合イギリスの日没は早い。すでに空の色は紫がかっていた。  王立芸術院。  英国でも屈指の名門と呼ばれる美術館は、次の時代の担《にな》い手を養成するための美術学校のスポンサーでもある。そしてそこからは未《いま》だに講師の声は途絶えない。  蛍光灯に照らされた教壇《きようだん》に立つのは、シェリー=クロムウェル。 「そんじゃ、今日は紋章について話すぞ」  ライオンのような金色の髪に、チョコレートのような肌の女性だ。服装はボロボロに擦《す》り切れたゴスロリの黒いドレス。優れた彫刻家としても知られるシェリーだが、その美的センスは己の作品以外には向いていない……というのが、生徒|達《たち》の間での評価だった。 「紋章っつってもあれだ、家紋に使われるヤツの事ね。得体の知れないオカルト的なマークじゃない。……まあ、そういう紋章もあるにはあるが、今は脱線しないでおこうか」  生徒達の間からは含んだ笑みが返る。  どうやら冗談だと思われたらしい。魔術師シェリーは気にせず話を先に進めた。 「一口に紋章っつーといくつかの部品を組み合わせたワンセットで扱われてるけど、今日持って来たのはその中で一番中心にある|盾の紋章《エスカッシャン》」  シェリーは気だるげな口調で、 「キャンバスに絵の具を塗って食べてく事を目標にしてるテメェらには関係ないって感じだろうけど、メッセージ性のある作品を描く時、こういう知識が助けになる事もあるのよ。ま、スランプ回避策の一つとして、適当に先生の話を聞き流してなさいってトコか」  と、その時、講義室のドアが控え目に叩かれた。  教壇の上に見本品の|盾の紋章《エスカッシャン》を乗せたまま、シェリーは怪訝《けげん》な目をそちらに向ける。  うっすらと、音もなく少しだけドアを開けたのは、この美術学校の若い事務員だ。去年赴任したばかりの女の事務員は、その小さな頭をわずかに傾け、申し訳なさそうな声で言う。 「あのう……英国図書館の方からご連絡があるのですけど……」 「そうか」  シェリーは適当に言って、紋章の縁を人差し指でなぞり、わずかに考えてから 「という訳で、悪いがしばらく自習ね」  極めて適当な調子で生徒達に言葉を投げると、ポリポリと頭を掻《か》きながら講義室を出る。  廊下に出ると、小柄な事務員はオドオドした目でシェリーを見た。 「その、何だかすみません」 「別に。あいつらも自習の方が嬉しいだろ。作品ってのは教えられて作るようなものでもないし。自習を好まないようなヤツは、そもそも作り手には向いてないわよ」 「は、はあ……」  曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んだ事務員に、シェリーは面倒臭《めんどうくさ》そうな調子で尋ねた。 「で、連絡ってのは?」 「え、ええ。お電話です。事務室までいらしてください」  事務員に先導されて小さな部屋に入ると、ビジネスデスクの上に置かれた電話機の一つが、保留中のランプをチカチカ瞬《またた》かせている。 「あれか」 「英国図書館からの連絡というと、美術品の取り扱いとか、そちらの話ですか」 「そんなトコよ」  大英博物館や聖ジョージ大聖堂などから頻繁《ひんぱん》に『連絡』を受けるシェリーは、周囲からは古い美術品の鑑定や修繕などを請け負っていると思われているらしかった。  ペコリと頭を下げて自分のデスクに戻っていく事務員を見ながら、シェリーは面倒臭《めんどううさ》そうな調子で受話器を取った。  向こうからは、やたらのんびりした女性の声が聞こえてくる。 『あらあら。そちらはシェリーさんでよろしいのでございましょうか』 「……やっぱりテメェかオルソラ。ったく、他に書物のスペシャリストはいないのかしら」  極めてうんざりした調子のシェリーに対し、オルソラと呼ばれた女性はころころと笑って、 『まあ。粗大ゴミは月曜日と金曜日でございますよ』 「分かった分かった。言動が巻き戻るのは良く分かってるから本題を話せ」  最近彼女の扱い方を覚えたシェリーは平坦《へいたん》に言って話の先を促す。  オルソラの話はこんな感じだ。 『英国図書館に残されている過去の魔術的事件の帳簿などから、『神の右席』……後方のアックアについて調べていたのでございますけど』 「それは今朝、私が出勤する前に聞いたわよ。で、結果は?」 『九月三〇日の目撃《もくげき》証言などを検証した結果、件《くだん》の「彼」は後方のアックアを名乗る前は、イギリス国内を中心に活動していたようで、複数の目撃談があるみたいでございます」 「それも昼休みに聞いた」 『で、一部では「彼」はイギリスの「騎士」だった……という証言もあるみたいでございますけど』 「あ?」  初めてシェリーの眉《まゆ》が怪訝《けげん》に動いた。 (ローマ正教徒である後方のアックアが、イギリスの騎士……?)  現在のイギリスでは、表向きの『騎士』の爵位《しやくい》は勲章《くんしよう》のようなものだ。家柄とかそういうものは関係なく、英国にとって優れた功績を残した者に、女王陛下から直接授けられるのである。その爵位が子供や孫に相続される事もない。感覚としては国民栄誉賞に似ているだろうか。  だがそれとは別に、イギリスの暗部には今も『騎士派』という大きな派閥が存在する。王家と国家のために剣を取り、それを脅《おびや》かす者全《すべ》てを敵とみなして、命を尽くして殲滅《せんめつ》する———極東のサムライと同じく、火器の発達と共に消えたはずの『騎士』達が。 「……今の他宗派の幹部が、昔はウチの騎士だったなんて。それが本当だとしたら、厄介事《やつかいごと》にも程《ほど》があるわね。下手すりゃ後方のアックアが起こした事件の責任だ何だで学園都市側から搾《しぼ》り取られるかもしれないぞ」 『ただ、バッキンガム宮殿に保管されている騎士人名記録からは、後方のアックアの特徴と一致する人物は見つからないのでございますよ』 「つまり情報はデマだったって事か?」  魔術的《まじゅつてき》な傭兵《ようへい》か何かが、周囲から誤解された……という所だろうか。  オルソラは『うーん』と少しだけ悩むような声を出して、 『確かに、騎士人名記録からは見つけられないのでございますけど』 「あん?」 『騎士に選ばれた者には、家柄一つにつき|盾の紋章《エスカッシャン》を用意するものでございましょう? ロンドン郊外の職人に尋ねた所、依頼人《いらいにん》不明の|盾の紋章《エスカッシャン》の注文書が見つかったのでございますよ。……匿名で注文はされたものの、製作途中で取り消されたらしいのでございますが』 「……なるほど」  シェリーは唇の端《はし》を歪《ゆが》めた。 『紋章のデザインは、その家柄、歴史、役割を記号化したもんだ。そいつを調べて、『記録上存在しない騎士』の素性《すじょう》を明かすって訳か」 『紋章の図版から得られる情報があれば……と思いまして、ええと「ふぁっくす」というので注文書をそちらへお送りしたのでごさいます』  シェリーがファックスの方を見ると、ちょうど用紙が吐《は》き出される所だった。先ほどの若い事務員がファックスの機材に向かって走っていく。  事務員から一〇枚近い紙束を受け取ったシェリーは、一枚一枚デスクの上に並べ、そこに記されたものを人差し指でなぞっていく。芸術品と言うよりは、機械の設計図のようだ。モノクロの用紙のあちこちにカラーの指定が細かく書き込まれているのが、そういうイメージをさらに深めているのかもしれないが。 「……メインカラーは二色。原色の青をベースに、装飾で緑。使ってる動物は……、ドラゴンと、ユニコーンと、こっちの女はシルキー か? 盾を四つに分けて、三つの動物を配置したとなると」 『何か分かったのでございよしょうか』 「分かったのは簡単な事だな」  しばらく図版を眺めていたシェリーは、やがて呆《あき》れたように息を吐いた。 「何だか知らないけど、この紋章の持ち主は相当のひねくれ者ね」 『はぁ』 「ドラゴン、ユニコーン、シルキー。共通するのは、全《すべ》て『現実には存在しない生き物』である事。それに、紋章の色もおかしい。基本色の青に、基本色の緑を重ねて配置するのはルール違反よ。……ここまで露骨だと笑えてくる。こいつ、よっぽど『騎士』としてリストアップされたのが不服だったみたいね」  シェリーは蓄音機の針のように、団版に記された情報を人の言葉に直していく。 「大方、『王室派』から歓迎の言葉を受けて、断るに断れず、しぶしぶ任命式の召集状を受け取ったんだろうよ。となると……こいつは『騎士』になる前はフリーで活躍《かつやく》していた戦闘のプロ。それも英国にとって利益になる活動を行っていたってトコかしら。 ……傭兵《ようへい》のくせに騎士に抜擢されるって事は汚い戦場の中でも正々堂々と己を貫いた証。人物背景に汚い所のない相手ほど、やりにくい敵はいないわね」  念のために注文書の依頼日時を尋ねると、一〇年以上前のものであるらしい。  そんな昔の、それも依頼を破棄されたはずの注文書を職人が後生《ごしょう》大事に抱えている時点で、後方のアックアがイギリス活動時代にどれほど人望を集めていたかが垣間見《かいまみ》える。 『あと、魔術業界における「騎士派」の爵位《しやくい》任命資格は英国人にしか与えられないのでこざいますから、英国を本拠地に置いた傭兵をリストアップすればよろしいのでごさいましょうか』 「いいや」  シェリーは図版に描かれた動物を人差し指でコンコンと叩《たた》き、 「ドラゴン、ユニコーン、シルキー。これらは全部イングラントの伝承に登場すんのよ。英国って意味じゃなくて、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランドの四分類で言う『イングランド』だ」 『……? ユニコーンはギリシアの方ではございませんか?』 「エリザベス一世がユニコーンの角をコレクションしているって伝承があったんだよ」  実際は単なる動物の骨だったんだけどな、とシェリーは呟《つぶや》いてから、 「とにかくイングランド地方の出身者で、英国の利益となったフリーの傭兵 ガッチガチの魔術結社に所属していない『騎士に迎えやすい』一匹|狼《おおかみ》傭兵が怪しいわね。おまけに嫌な事を頼《たの》まれても断りきれなかった事から、ある程度『王室派』を大事に扱っていたヤツを洗い出せ」      4  建宮斎字《たてみやさいじ》を始めとする天草式《あまくさしき》の本隊五〇人は、第二二学区第七階層の裏路地にいた。連絡を受けた建宮は、携帯電話を片手に周囲の仲間達へ声をかける。 「第三階層の自然公園で、後方のアックアと学園都市の無人機甲部隊が衝突《しようとつ》したようなのよ」  その場の全員に緊張《きんちよう》が走る。  第三階層と言えば、ちょうど上条と五和が襲われた場所だ。  どちらが勝利したかは言うまでもない。後方のアックアという化け物は、量産品の機械の群にやられる程度の存在ではない事ぐらいは分かり切っている。  建宮《たてみや》の近くにいた牛深が窺《うかが》うような目で言う。 「……行きますか?」 「いや」  建宮はパチンと携帯電話を閉じながら、首を横に振る。 「闇雲《やみくも》に突っ込んだ所で、結果は目に見えてるってヤツなのよ。イギリスからの情報を待つ。最適の準備を整え、最適の作戦を練って、最適の時に、最適の戦いに臨む。……これは、決戦だ。本気でヤルってのは、そういう事よ」  大切な仲間であり、命の恩人である上条《かみじょう》叩き伏せた後方のアックアの現在位置が判明していながら、ここは堪《こら》える。建宮の内心には業火《ごうか》が吹き荒れているだろう。たった一度の勝利のためにそれら感情|全《すべ》てを押し殺し、建宮は『待つ』と言ったのだ。 「最適の時は今じゃない。最適の作戦を練るのは、オルソラ嬢《じょう》のデータ整理能力に頼ってからでも遅くない。それなら今、俺達《おれたち》にできる事は何か。簡単よな。———最適の準備を行うって事しかねえのよ」  建宮は周囲を見回す。  あちこちに散らばっている天草式《あまくさしき》の面々は、それぞれが剣や槍《やり》などの手入れを行っていた。 普段《ふだん》は『隠し持つ』事を旨《むね》とするため、ある程度の強度や威力を犠牲にする必要があるのだが、今はそちらのリミッターを解除するための『補強』を行っている最中なのだ。 「……三時間ほど、待ってください」  ボソリ、と声が聞こえた。  建宮がそちら見ると、そこにいるのは革ベルトを新撰組《しんせんぐみ》のようにたすき掛けにした五和だ。彼女は俯いたまま槍の補強———というより、ほとんど全面的な改造をしている所だった。  彼女の槍は|接続部《アタッチメント》によって短い棒をいくつも繋げているため、どうしても強度が弱くなる。今はスプレー状の固定剤を柄《つか》の全体に吹きつけ、樹脂の塊《かたまり》で一回り太くした上に、紙ヤスリを使って表面を丁寧《ていねい》に磨《みが》いている状態だ。 「手に馴染むように形を整えて、怪物用に刃を研ぎ直すのに、ちょっと時間がかかりますから。……任せておいてください。あいつの攻撃《こうげき》を直《じか》に受けたんですから、どれぐらいの得物《えもの》があれば手際《てぎわ》良くヤレるかは分かっています……」  紙ヤスリをかけ、形を整え、樹脂の塊がある程度|薄《うす》くなったら、その上から再びスプレーをかける。彼女はこの作業を、何回も、何十回も、ひたすらに繰り返していた。  ジャリ! ジャリ! と、樹脂を削る音にさえ殺意が込められているように聞こえて、建宮はちょっと背筋に寒いものを感じた。まるで夜中に人食い山姥《やまんば》が包丁を研いでいるみたいだ。彼は心の中だけで思う。や、ヤバい。ちょっと調子に乗って追い詰め過ぎたかも?  と、似たような事を考えていたのか、傍《かたわ》らの牛深《うしぶか》が建宮《たてみや》に耳打ちしてきた。 「(……どうすんですか。焚きつけすぎて石油化学コンビナートに大引火って感じになっちゃっていますよ、今の五和《いつわ》)」 「(……いっ、いや!? だってお前さん、病院じゃ何か抜け殻みたいになってたもんだから、ええとそのあれよ!! 元気づけるっていうの?」 「(……この大馬鹿《おおバカ》野郎!! やっぱ考えなしに焚きつけただけだったんですか!? 俺達《おれたち》、これから恋する乙女の恐ろしさを目《ま》の当たりにするかもしれないですよ!!)」 「(……ぇぇー俺のせいなのよ!? じゃあ、あの時一体どうすりゃ良かったってのよ!!)」 「建宮さん。それに牛深さんも」  ボソッと五和に言われて、男二人はビシィ!! と直立不動になった。  五和は俯《うつむ》いたまま、表情の読めない顔でこう言った。 「大丈夫《だいじょうぶ》、私は大丈夫ですから———ちょっと、集中させてもらいます?」  のっぺりと、ものすごく平坦《へいたん》な声だった。  言葉はそれっきりで、再びジャリジャリと槍《やり》の側面に紙ヤスリをかけていく五和。持ちやすいように、使いやすいように、殺しやすいように、少しずつ槍は形を変えて進化していく。  あわわわわわわわわーッ!! と全身で震《ふる》える建宮や牛深を見て、周りにいた他《ほか》の仲間達が心底|呆《あき》れたような息を漏らした。  何だか今日の五和はやけにバイオレンスなので、建宮達はこそこそ革ベルトをたすき掛けにして衣服の魔術的《まじゅつてき》補強を行ったり、全員の手帳を確認し会って周辺地形を頭に叩《たた》き込んだりする。  そうこうしながらも、建宮と牛深の二人は、ここにはいない後方のアックアに対して、ちょっと真剣に両手を合わせて無事を祈った。  お前さんにも色々あるんだろうけど、うちの五和がついうっかりブチコロシモードになっちゃった時は、自分の身は自分で守ってね、と。 「(……ぜっ、ぜぜぜぜ絶対、キレた五和を羽交《はが》い絞《じ》めにする係にはなりたくねえのよ)」 「(……そそそ、そいつは俺も同感です)」  その時、建宮斎字の携帯電話が着信音を鳴らした。 『あらあら。そちらは建宮さんでございますか?』 「うわあオルソラ嬢!! この声すごく癒《いや》されるのよーっ!!」  結構心の中の重要な所が決壊《けつかい》しかけて、その場で泣き崩れそうになる建宮。  電話の向こうでは状況が掴めていないらしく、 『あのう、人違いでしたら申し訳ございませんでした。私はこれで———』 「切らないで!! ここで切られたら再びあの緊張感《きんちようかん》の中に放り込まれてーっ!!」  藁《わら》をも掴む感じで建宮はオルソラとの会話に没頭していく。彼は周りにも聞こえるよう、携 帯電話をスピーカーフォンにモードチェンジしてオルソラの言葉を待った。 『こ、後方のアックアについての新情報でございますよ』  天然マイペースなオルソラが珍しく若干《じやつかん》引きながら報告してきた。 『後方のアックアの本名が判明したのでございます。ウィリアム=オルウェル。イングランド地方出身の魔術的《まじゅつてき》な傭兵《ようへい》で、所属はなし。当然ながら、生まれた時からローマ正教徒という訳ではなく、幼少期にイギリス清教の教会で洗礼を受けたという記録もございます。傭兵としては一匹狼で活動を続け、特に敵の拠点を叩く事を得意としていたようでございますよ』  得意としていた。  その言葉に含まれるのは、『拠点を叩くだけ』ではないという事だ。数ある戦闘《せんとう》の中で最も得意だったのが拠点制圧。だが、それ以外の戦闘にしてもできなかった訳ではない。もしそうなら、ウィリアム=オルウェルはとっくに敗北し、ここにはいないはずなのだから。 『また、ウィリアムは魔術師としての魔法名も持っていたようでございます。Flere210 という名を胸に刻んでいたのでございますよ』 「……Flere……か」  魔法名に使われるのはラテン語の単語だ。Flereの端的《たんてき》な意味は『涙』。そこにどんな意味を込めていたのかは不明。だがウィリアム=オルウェルには胸に刻むだけの理由があるのだろう。そして同時に、胸に刻むだけの圧倒的な実力が。  聖人。  自分達とは圧倒的に違う存在を示す単語が、建宮《たてみや》の脳裏をよぎる。 「ウィリアム=オルウェルの傭兵《ようへい》時代の戦歴ってのは?」 『ロシア西部で繰り広げられた「占星施術《せんせいせじゅつ》旅団援護」、フランス中央部の「オルレアン騎士団|殲滅《せんめつ》戦」、ドーヴァー海峡近辺での「英国第三王女救出戦」……数を上げればキリがないのでございますよ』  数々の戦いに参加し、勝利を収め、生きて帰ってきたという事は、それだけで後方のアックアの強大な実力を示す証拠となる。  オルソラはアックアが参加した戦闘《せんとう》の名を羅列《られつ》した。建宮も聞いた事があるものがいくつかあった。いずれも激戦として知られる。今の天草式《あまくさしき》では束になっても乗り越えられないような悪夢と譬《たと》えるべき戦場ばかりだ。 「強敵……いや、難敵ってレベルよな」 『ただ、ウィリアム=オルウェルは目の前の問題を全《すべ》て暴力で解決するような人物でもなかったようでございます。例えば医療設備の乏しい紛争地城では医療に応用できる薬草の知識を伝えて死亡率を軽減したり、飢えに苦しむ村ではその地方では食用に使われていないゴボウの調理方法を教えたり……と、戦う以外の方法でも活躍《かつやく》したとか。一部では「賢者」とも呼ばれているそうでございますよ』  それは現実の戦争を理解しているからこそ、できる事だ。  とりあえず大部隊を送ったり、とりあえず現金を寄付したり、といった方法では解決できない問題もある。実際に戦場の空気を肌で感じ、そこにいる人々が何を求めているのかを読み解き、その上で『彼らにもできる事』を示す事で、一時的ではなく恒久的に生活の質を向上させる。どうやら後方のアックアは、ただ単純な戦闘バカという訳ではないようだった。  強靭《きょうじん》な肉体と柔軟な思考を兼ね備えた、聡明な獣《けもの》。  建宮がイメージするのはそれだ。 『弱点と呼べるようなものは見つからないのでございます。フリーの傭兵の頃から「聖人」として爆発的な力を行使していたようでございますし』 「……その上、今はローマ正教に改宗して『神の右席』としての力すら振りかざす、か」  そう、傭兵時代の伝説の数々は、まだウィリアム=オルウェルが「後方のアックア」と呼ばれる前に打ち立てたものだ。今の実力はそれ以上。しかも単に実力が追加したのではなく、全く新しい戦闘の基盤を丸ごと一つ手に入れているのだ。改めて、敵に回している存在の大きさに驚かされる。今回の敵は、おそらく彼らが掲げる|女教皇様《プリエステス》に牙を剥くより恐ろしい。 (それほどの力、一体どうやって制御しているのよ?)  神裂《かんざき》などを見ると、聖人としての力を自然に扱っているように思えるが、実際にはそんなに甘くない。建宮など普通の魔術師が扱おうとすれば、即座に自滅するはどの量なのだ。  その上、アックアが掌握するのはそれ以上。 (……やはり魔術の腕でも超えられているって訳よな) 『ウィリアムは英国の騎士として迎えられる予定でございましたが、その任命式の一週間前に消息を絶っていたようでございます。だから作りかけの|盾の紋章《エスカッシャン》が、職人の家に放置されていたのでごさいますね』  そして、再び出てきた時にはイギリスの敵となっていた。  その過程に何があったのかは謎だが、今はそれどころではない。 「弱点までは期待しない。せめて、アックアの戦闘スタイルぐらいは分からないのよ? 使っている武器とか、流派とか」  『流派の方は完璧な独学のようでございますね。本人は「|傭兵の流儀《ハンドイズダーティ》と語っていたようでごさいますけど。使っている武器に関しては、全長五メートルを超す、鋼《はがね》の梶棒《メイス》。外観は騎士の扱うランスのようだという話もございますけど』  それは実際に対峙《たいじ》した建宮達《たてみやたち》も掴《つか》んでいる情報だ。 『後は……戦闘中の移動方法が特殊で、走るのではなく、地面を滑《すべ》るように動き回るそうでごさいます』 「……?」  そこまで頭が回らなかった。接近時に音が聞こえなかったのはそのためだろうか。言われてみれば確かにそんな気もするが、何しろ後方のアックアの速度はあまりにも高速で『方向転換の一瞬《いつしゅん》以外、ほとんど消えているようにしか見えなかった』というぐらいなのだ。 『どうやら水を扱った移動術式の一種みたいでございますね。氷で馬車が滑るのは、氷と車輪の間に薄《うす》い水の膜ができるからでございましょう?』 「となると……ヤツは『後方のアックア』を名乗る前から水を使うのが得意だった、って訳なのよな……」  前方のヴェント、左方のテッラ、後方のアックア。  これらが四大天使の名にちなんだものなら、アックアの領分は『|神の力《ガブリエル》」であり、その属性は水だ。前回の戦闘で『水の術式』を使った特殊な攻撃《こうげき》が来なかったのは、それだけ軽くあしらわれていたからだろう。 (……さて。本当にどう作戦を練るか)  未知数———それも想定している上限のはるか高みにある未知数の項目が多すぎて、建宮は思わず笑いそうになった。  と、その時だった。 「敵が何であれ、私達がやらべき事は同じはずです……」  ボソッと。  槍の補強をしていた五和が、ほとんど唇を動かさないで口を挟んだ。 「そうですよね。建宮《たてみや》さん」  ニゲルナヨと言外に宣告され、建宮は携帯電話を握ったままガタガタと震《ふる》える羽目になった。      5  深夜三時。  第二二学区第三階層の鉄橋に、後方のアックアは佇《たたず》んでいた。  公園からここまでの道中、これまで倒したのは『オジギソウ』制御用自走アンテナ八基、装甲車十七台、駆動鎧《パワードスーツ》三八体。いずれも無人機だった。敵を倒しては移動し、移動先で敵と遭遇《そうぐう》しては殲滅《せんめつ》し、……繰り返しているが、作戦を指揮している操縦者は未だに発見できない。どうも、彼が考えている以上に相手も頭を使っているようだ。  頭上にあるプラネタリウムのスクリーンに映された作り物の夜空になど目も向けず、アックアは思う。  (こういう時、ヴェントの『天罰《てんばつ》術式』があれば簡単なものであるがな……)  それでも、ものの一時間も経たずに敵の部隊は撤退《てつたい》した。  あまりにも一方的な勝敗に、軍備の無駄遣いだと学園都市上層部は判断したのだろう。アックアもその通りだと思う。あの鉄クズの塊が、元はどれだけの値段をかけて生産されたものかはあまり考えたくなかった。近代兵器というのは金の感覚がおかしくなるほど莫大《ばくだい》な費用をつぎ込まれるものだ。もっと上手な金の使い方を覚えれば良いものを、とアックアは考えたが、 「……しかし、案外|馬鹿《ばか》ではないようだ」  手際《てぎわ》の良い撤退に対する、彼の評価だ。  どんな分野においても言える事だが、プロとは自分の領域に関してとても高いプライドを持つ一面がある。そして軍人ならばストレートに『カ』。あれだけ一方的にやられて、黙《だま》っている者はいないだろう。それを押さえつけ、納得させるだけの論理を組み立て実際に状況を理解させ、迅速《じんそく》な撤退を促した指導者が、この学園都市に存在するという訳だ。  もっとも、指導者がどれほど優れた政治的手腕を発揮しょうと、その下にどれほど屈強な戦力が結集しようとも、アックアのやるべき事は変わらない。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》の粉砕。  及び、それを妨害する全《すベ》ての因子の迎撃《げいげき》。 (さて)  アックアは懐中《かいちゆう》時計を取り出し、時間を確かめる。 (|幻想殺し《イマジンブレイカー》の交渉期限まで、後一九時間ほどある訳であるが……)  懐中時計の蓋《ふた》を閉じ、ズボンのポケットへとしまい、アックアはジロリと眼球だけを動かして横を見る。 「『結果』は出たのかね?」  アックアは、闇《やみ》の向こうへ言葉を放つ。 「刻限まで半日以上あるのであるが、準備はもう済んだのか」  闇の奥からザリ……という足音が聞こえた。  一つではない。  足音の数は五〇前後。いずれもイギリス清教の分派として知られる、天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきよう》のメンバーばかりだ。取り囲むような足音は立体的で、それは鉄橋を構成する鉄骨の合間合間から彼らが歩み出るように出現した事を意味していた。  男も女も子供も大人も、誰《だれ》も彼もがどこにでもいそうな普通の服装をしているのに、その手には剣や槍《やり》や斧《おの》や弓や鞭《むち》などが握られていて、街灯の光を禍々《まがまが》しく照り返している。中には傭兵のアックアも見た事もない、東洋特有の鎖鎌《くさりがま》や十手《じって》、鉄製の笛のような武器まであった。  先頭に立つのは天草式十字凄教の現教皇代理・|建宮斎字《たてみやさいじ》。  名前を知っているのは単純で、前回の戦闘《せんとう》時、仲間同士の呼び掛けや戦術切り替えの際にわずかに漏れた単語を拾っていたからだ。戦地での情報収集能力も傭兵には必要な技能である。 「ま、ここまで決定的な無理難題を押し付けられると、悩む必要もなくなるってのよ。おかげで決断するのは速かった。そいつだけは感謝しておこうか」  建宮が手にしているのは大剣フランベルジェ。クレイモア、トゥバンデッドソードと同じく、分厚い甲冑《かつちゆう》ごと敵を叩《たた》き潰《つぶ》すために極限まで大型化された両手剣だ。  全長一八〇センチを超す化け物サイズの得物《えもの》。  しかし、アックアからすれば、それでも子供の持つ木の枝程度にしか見えない。 「無理難題、か」  嘯《うすぶ》き、笑い、アックアは足の裏で軽く地面を叩《たた》く。  音もなく影が蠢《うごめ》き、そこから五メートルを超す鉄の塊《かたまり》が突き出てくる。 「ローマ正教二〇億人を敵に回した状況から、腕一本で脱せられると言っているのだ。むしろ安い買い物だと思うのであるがな」 「敵はローマ正教なんかじゃねえ。真面目《まじめ》に神様を信じている一般の人間を食い物にして、好き勝手に操ってるテメェらみたいな人間なのよ」 「ふむ、交渉は決裂、という訳であるか」 「それ以外に何があるってのよ」 「別に。私が困る問題ではないからな。むしろ困るのは貴様達の方である。……唯一生き残る可能性のある選択肢を、自らの手で放棄したというのだから」  アックアは足元の影から伸びた特大のメイスを掴《つか》み直し、テニスラケットを振るうような気軽さで手首の調子を確かめながら、言う。 「念のために繰り返しておく。私は聖人である」 「……、」 「そして『神の右席』としての力も有している」 「……、」 「それを正しく理解した上で、なお守るべき者のために命を賭して戦うと言うのならば、私は期待するのである。人の持つ可能性とやらに。その大言が寝言でない事を期待し、貴様|達《たち》が持てる力の全《すべ》てを注いで用意したであろう切り札を、一つ残らず受け止めてみせよう」  アックアが 変わる。  見た目に変化がある訳ではない。具体的に天使の羽が生えたり頭上に輪っかが浮かんだりする訳でもない。しかし、この時、確かにアックアの全身から見えない何かが噴き出した。 「その上で、勝つ」  ズン……と、アックアの足が半歩だけ動く。  それは移動のための半歩ではない。鉄塊《てつかい》のメイスを構えるための半歩。敵と認識したものを余さず粉砕する覚悟と決意を示す、静かで重たい決定的な動作だ。 「勝負とは善意ではなく強弱によって決定するものだという事を、私は証明するのである。願わくば、せめて私の『切り札』の一つぐらいは引き出せる事を。それすら届かぬならば、貴様達には弱者ではなく愚者の称号が与えられるであ———」  しかし、アックアの言葉は最後まで続かなかった。  ドバン!! と。  痺《しび》れを切らした五和が、二人の会話を無視していきなり本気の一撃《いちげき》を放ったからだ。  無言で放たれた|海軍用船上槍《フリウリスピア》は、雷光のような速度で一直線にアックアヘ突き進むと、その刃先にある『冷たい夜気』を利用して作り上げた術式を一気に発動し———そして起爆した。ズバァ!! と閃光《せんこう》が吹き荒れ、爆風が撒き散らされ、直撃を受けたアックアだけでなく、周辺のアスファルトまで容赦《ようしや》なく粉々に打ち砕く。  味方であるはずの建宮斎字まで煽《あお》りを受けてひっくり返った。 「いっ、五和……ちゃーん?」  面食らった建宮が小声で言ったが、五和は振り返りもしない。その肩からはピリピリした感情だけが伝わってくる。  もうもうと立ち込める粉塵《ふんじん》を睨《にら》みつけ、五和は槍を構えたまま舌打ちする。  灰色のカーテンをメイスで掻《か》き破り、無傷のアックアが出現したからだ。 「人の話は最後まで聞くものではないかね?」 「……話なら、後で聞いてあげますよ」  臆《おく》するどころか、逆に一歩前へ踏《ふ》み込んで五和は告げる。 「さんざんさんざんさんざんさんざんグチャグチャのグチャにブチのめした後に! まだ顎《あご》が砕けていなかったらの話ですけどね!!」  無表情ながら眉間《みけん》の真ん中に異様な力が集まりつつ、鼓膜を破るような大声を聞いた天草式の面々が、苦い顔で頭を抱えたり目を逸《そ》らしたりする。 「(……あばぁーっ!! 五和《いつわ》の野郎、カンペキに弾《はじ》けちゃっていますがーっ!?)」 「(……ほら病院で教皇代理が『最高に良い女である事を証明して』とか不用意に言うから、五和もうヲンナゴコロ全開じゃないすか!!)」 「(……馬鹿《ばか》ね。恋する女は神様だって敵に回せるのよ)」  騒ぐ男衆に対して、何だか妙に冷静なコメントを残す女性の対馬。  そんなやり取りを無視して、五和とアックアが正面から睨み合う。  いつの間にか、天草式の中心点がガラリと変わる。 「ふむ。勇ましい限りだが、その言動を現実的な実力として見せてほしいものである」 「ご心配なく。私|達《たち》はたとえ肉片の一つとなってでも、あなたを徹底的《てっていてき》にメキャメキャのメキャにブチのめして自分のした事を後悔させてあげますから!!」  ええ!! そこまですんのーっ!! という背後の声を無視して、五和はさらに一歩前へ。  決定的な射程圏に踏《ふ》み込んだ二人は、呆然《ぼうぜん》とする建宮斎字《たてみやさいじ》を放ったらかしにして激突する。      6  深夜の鉄橋に爆音が炸裂《さくれつ》する。  聖人として莫大《ばくだい》な力を有するアックアと、ただの人間である五和では圧倒的に速度が違う。ほとんど肉眼から消える速さで真正面から突っ込んだアックアは、全身の筋肉を一気に膨張《ぼうちよう》させ、まるでギロチンのような勢いで巨大なメイスを叩きつける。  半歩遅れて、五和の槍がかろうじて動く。  アックアの攻撃の軌道へ槍を挟み、受け止める構えだ。だがアックアの一撃を止められるものなど存在しない。  しかし。 「ッ!!」  ガッキィィ!! と。  岩と岩をぶつけるような轟音《ごうおん》と共に、五和の槍がアックアのメイスを止める。  本来ならば|海軍用船上槍《フリウリスピア》ごと、五和の華奢《きやしや》な体を粉々に吹き飛ばさなければおかしいのに。 「その槍は……?」 「ええ、樹脂を一五〇〇回ほど重ねてコートしています」  ギリギリと武器を噛《か》ませながら、五和《いつわ》は笑う。 「表現する象徴は樹木の年輪であり、隠れた術式の正体は『植物の持つ繁殖力《はんしよくりよく》」。———術式の限界を迎えるその時まで、時間の経過と共に文字通り成長するこの硬度。一秒ごとに増幅する耐久力を味わっていただきます!!」 『雑草』の力を知れ、と五和は宣言する。 「だが、他《ほか》にも複数の術式を重ねがけしているな……」 「……古今東西あらゆる文明において衣服が何故生み出されたのか。その隠れた術式の意味を説明する必要がありますか?」  見れば、五和の着ているトレーナーの脇《わき》の辺りが不自然に弾《はじ》け、白い肌が露出《ろしゆつ》していた。まるでメイスによる五和へのダメージを肩代わりしたかのように。 「『装着者の身を守る』……これが最も重要な意味のはずです。とはいえ、あくまで補助的なダメージ緩和《かんわ》術式であって、どんな攻撃《こうげき》でも丸腰で防げるほど便利なものではないですけどね」  前回の戦闘では、アックアはこんなものを見なかった。そして彼らに出し惜しみする必要はなかった。つまり、天草式《あまくさしき》の面々は即席でこれだけ高い効果を持つ霊装《れいそう》・術式を用意してきたという事だ。  しかしアックアが一番|驚《おどろ》いているのはそこではない。 (私の速度に、ついてきただと……?)  アックアは聖人だ。その速度は圧倒的で、生身の人間などに追い着けるものではない。本来ならば、五和は指一本動かせずに消滅していたはずだ。  それに反応を示した。  半歩遅れてかろうじて追い着く程度のもので、反撃に転じるだけの余裕はない。だがしかし、確かに防御自体は成功している。  何故だ、と疑問を感じたアックアは、直後にその正体を看破する。  五〇人近い天草式のメンバーの動きには、一定の規則性がある。単に効率的な戦闘を行うための布陣とはまた違う、一種独特の規則性が。五和を中心にしたと思えば他へ中心が移り、中心を探せば全体へ散って中心そのものがなくなり、そして中心そのものを意識から外した途端《とたん》に再び五和へ中心点が戻る。一つの組織の中を『中心』という生き物がヌルリと移動していくような、奇妙な感覚だった。  それは時にまとまり、時に散らばり、砂時計の砂のように、各々《おのおの》の動きが一つの大きな意味を作り出す。 (互いが互いの動体視力や運動能力を増強し合っているという訳であるか) 「小細工を……」  まるで聖人との戦いに慣れているような挙動[#「まるで聖人との戦いに慣れているような挙動」に傍点]に、アックアはやや眉《まゆ》をひそめる。聖人は世界でも二〇人といない希少な才能だ。一生の内に直《じか》に目にできる者も限られている訳だが (ふん、そうか。天草式十字凌教《あまくさしきじゅじせいきょう》。あそこにはかつて私と同じ聖人が属していたのであるな)  その辺りの事情が加味され、彼らは聖人の速度・腕力・知性に 『目が慣れていた』という訳か。そしてその経験を活《い》かすだけの頭があり、こうして術式を組んでアックアの動きについてきたという結果まで出した。  アックアは一度メイスを後ろに引き、構え直し、改めて五和《いつわ》の顔を見据えて、 「———だが、それでも遅いのである」 「ッ!?」  ズォ!! と再びアックアが迫る。  暴風を認識する前に、五和に向けて横薙ぎのメイスが襲いかかる。かろうじて五和がそれを受け止め、衣服を裂いて魔術的《まじゅつてき》に衝撃《しょうげき》を逃がした時には、すでに真上から次の一撃が迫る。 五和は槍《やり》を振るおうとするが、一撃目の衝撃が今頃《いまごろ》になって伝わり、五和の体が仰《の》け反る。衝撃の伝導よりも素早く振るわれたアックアの二撃目を、初老の諌早《いさはや》が刀を犠牲《ぎせい》にして軌道を半秒遅らせ、その間に女性の対馬が五和の首根っこを掴んで横へ跳ぶ。  続けて放たれたアックアの三撃目が、ついさっきまで五和の立っていた場所を通過し、鉄橋のアスファルトを容放《ようしや》なく粉砕した。  ゴドン!! と、鉄橋そのものが不安定に揺れる。  直撃を免れたものの、飛び散った大量の破片が諌早の全身を叩《たた》き、吹き飛ばす。  アックアはさらに五和を追おうとしたが、その時、灰色の粉塵《ふんじん》に混じって何かがキラリと反射した。  まるで、赤外線レーザーが煙幕によって視認できる状態になったように。  その細く直線的な光の正体は、  鋼糸《ワイヤー》。  それも一本二本ではない。  気がつけば、五和を中心に五〇人近い人間の指先から極細の糸が放たれていた。各人が操る糸はそれぞれ七本。合計三五〇本もの蜘蛛の糸が、全方向からアックアヘと襲《おそ》いかかる。 「ふん」  アックアは避けなかった。  ギュバ!! と空気を引き裂く極細の刃に敢《あ》えて身をさらし、その上で力技を使って強引に引き千切る。  必殺どころか、足止めにしても一秒すら保《も》たない。  圧倒的な力を見せつけた『神の右席』、後方のアックアは、 『———殺したな』  ボソリと。  耳元で、ささやくような声を聞いた。 『———ワタシをコロしたな』 (なるほど、そう来るのであるか……ッ!?)  アックアが歯噛みした瞬間《しゅんかん》ワイヤーの切断面から赤い霧のようなものが噴きだした。それは深夜の闇《やみ》に染《し》み渡るように拡大すると、あっという間にアックアの全身を包んで呑み込んでいく。 「……隠れた術式の正体は、『殺人に対する罰』  壊《こわ》れた鉄橋の中央に立つ五和《いつわ》が呟《つぶや》くと、赤い霧が、内側からボコッ!! と膨《ふく》らんだ。  天草式の魔術の内部で莫大《ばくだい》な爆発を巻き起こしたのだ。逃れ得ぬ牢《ろう》を築いた上で、その内側で圧倒的な爆発を見舞う。これならどんなに素早い動きをしても避けられない。 「ワイヤーを一個人の生命線と再定義し、それを破壊《はかい》した者に罰を与える術式です。これは古今東西 あらゆる文化圏に共通する宗教観を利用していて———つまり、どんな文化圏の防御術式を使っても防く事はできない『負の怨嗟《えんさ》』を意味しているんですよ」  アックアを包み込んだ赤い塊《かたまり》が続けて二度、三度と内側から膨らんだ。ボコッ!! バゴッ!! という水中で爆発が起きたような鈍い音が次々と炸裂《さくれつ》していく。それは連鎖的《れんさてき》に数を増し、いつしか赤い霧はブドウのような盃《いびつ》な形になっていた。  個人の力では行えない、天草式という『一つの塊』が織り成す最大級の奥義《おうぎ》。  しかし、五和達の表情は優れない。  ドバッ!! と。  必殺の術式は中心から破られ、四方八方へと飛び散ったからだ。  それは天草式が用意したものよりもはるかに膨大《ぼうだい》な爆発。彼らが殺人用に持ち出したものより一層強大な爆風が、軽々と牢を破壊してしまったのだ。  粉塵《ふんじん》と水蒸気が混じり合い、周囲一面に灰色のカーテンが下ろされる。  その向こうから、太い男の声が聞こえてきた。 「私の特性を教えよう」  カーテンの向こうに揺らぐ巨大なシルエット。  直立するその影には、芯《しん》のようなものが通っていた。 「私の特性は『|神の力《ガブリエル》』。そして受胎告知との繋《つな》がりから、私は聖母に関する術式———聖母|崇拝《すうはい》の秘儀《ひぎ》をある程度行使する事ができる」  言葉だけが続く。 「聖母崇拝の特徴は、『厳罰《げんばつ》に対する減衰』である」 『神の右席』後方のアックアの声だけが。  世界を占める。 「信じる者は救われる。しかし規律を守らぬ者に相応の厳罰を科すのも『神の子』の特徴である。それを聖母崇拝は軽減する。修道院を抜け出した女の代わりに日々の点呼を肩代わりして、女が戻ってくるまで監視の目をごまかしたりな」  ゆらり、とシルエットが動いた。  粉塵《ふんじん》と水蒸気が作るカーテンを破るために、前へ。 「生まれながらにして、人と神と聖霊《せいれい》の子である『神の子』と違い、聖母は正真正銘《しようしんしようめい》の人の子でありながら、神の領域に深く踏み込んだ稀有《けう》な存在である。そこから転じて、聖母は『圧倒的な慈悲《じひ》の心をもって、厳罰に苦しむ人の直訴を神へ届ける役割』を得たという」  声が響く。  高らかに、隠す事もせず。 「———結論を言おう。我が特性は罰を打ち消す『聖母の慈悲』。厳正にして的確なる最後の審判すら歪《ゆが》め、魂《たましい》を天国と地獄へ送り込む道標をも変更させるのである。あらゆる罪と悪に対する罰則などの制約行為は私に対して意味をなくす。『殺人罪』の払拭《ふっしょく》など、指一つ動かす必要もない。『神の罪』すら打ち消すこの私に、そんなものが通じるとでも思ったのであるか」  ドバァ!! という爆発音が響いた。  アックアを包んでいた灰色の幕が、一気にまとめて薙《な》ぎ払われる。 「ふむ。人の話は、最後まで聞くものではないかね」  アックアは巨大なメイスを肩で担ぎ、つまらなさそうに息を吐く。  そこには彼以外、誰もいなかった。ご丁寧に『人の気配』だけ察知させる術式を置き土産《みやげ》に、天草式《あまくさしき》の戦闘《せんとう》要員五〇名は忽然《こつぜん》と消えている。  彼は鉄橋に一人残され、しかし獲物の足跡を辿《たど》る猟師《りょうし》のように笑みを浮かべる。 「まあ、追う楽しみは増えたのであるが」      7  建宮斎字《たてみやさいじ》を中心とした現天草式のメンバーは、鉄橋から三〇〇メートルほど離《はな》れた小さな広場まで移動していた。アックアに仕掛けた『殺人に対する禁忌《きんき》』の術式と連動し、それが破られた場合は問答無用で高速逃走する術式をあらかじめ組んでおいたのだ。  だがそれは気休め。  あれほどの使い手が、人間の気配や魔力の流れを感知できないはずはない。この閉鎖《ヘいさ》された地下市街では逃げられる場所も限られているし———何より、彼ら天草式には逃げられないだけの理由がある。 「やはり破られましたね。どうするんですか、教皇代理」  牛深《うしぶか》が木綿糸のように千切《ちぎ》られたワイヤーを回収しながら、建宮《たてみや》に指示を仰ぐ。 「……あれで倒れてくれれば簡単だったんだが、やっぱりそうはいかないのよ」  建宮はフランベルジェを手にしたまま、皆を見回して言う。  後方のアックアについていくほどの運動能力を見せた天草式だが、実はそれほど便利なものではない。というより、五〇人もの人間が常時『聖人』と同じ速度で動けるとしたら、もはや天草式は『聖人』一人よりも重宝されている事だろう。 「ごまかしにも限界があります、ね」  五和《いつわ》は荒い息を吐いて呼吸を整えながら言った。  実はあの肉体強化術式は、背中に触れる事をキーに据えた術式だったのだ。隠れた術式の意味は『背中をさする事による体調回復』。彼らは戦いながら絶えず陣形を変化させ、移動・交差する際に仲間の背中へ手をやり、その体内機能を回復、また一時的に増強する。個人ではできない集団特有の『仲間のための』行動による術式であり、さらに風水上『寝所』や『休憩所』に相応《ふさわ》しい『脈』のある場所《エリア》で効果が増幅するおまけつきだ。  仲間同士で互いに幾重《いくえ》にも運動能力を高め合う事で『聖人』にもついていく事に成功したが、敵の攻撃《こうげき》を捌《さば》き切れず、陣形そのものが乱れてしまえば仲間の『増強』に手が回らなくなる。一ヶ所の綻《ほころ》びが周囲全体の動きへ影響を与え、いつしか集団そのものの速度が鈍る。  これだけでは、後方のアックアには勝てない。 『聖人』とは、そういう怪物なのだ。 「となると、こっちも『本命』を出すしかないってのよ。『神の子』の処刑の様式に従い、『楯《やり》』を持つ五和を起点として反撃する。出し惜しみはなしだ。覚悟を決めるぞ」  彼は、特に五和の方を見て確認を求めた。  五和は|海軍用船上槍《フリウリスピア》を両手で握ったまま、小さく頷《うなず》く。  その時だった。  ゾワッ!! と、その場にいた全員の肌に寒気が走った。何か巨大な気配のようなものが、闇《やみ》を引き裂いて高速で近づいてくる感覚が確かにあった。その正体を問うまでもない。後方のアックア以外に誰《だれ》がいる。  彼ら天草式には『本命』となる作戦がまだ残っている。  しかし、それは『本命』であるが故《ゆえ》に、そう簡単に繰り出せるものではない。 「チッ、一度態勢を立て直すぞ!!」  建宮《たてみや》が叫ぶと、天草式《あまくさしき》の全員が波のように動いた。  彼らが移動したのは、前後左右のいずれでもない。『下』だ。タイル状の人工的な地面に手を突いて一メートル四方ほどのタイルをハッチのようにこじ開ける。その奥に待っているのは鋼鉄とコンクリートの織り成す地下空間だ。  湿った金属の階段や手すりに、縦横に走る太いパイプ。ごうんごうんと音を立てる機材の群れに背中を押しつけるようにして、隙間《すさま》を潜《くぐ》り抜ける五和《いつわ》は、ここが水力発電用のタービンと変電施設を兼ねている事に気づいた。  地下市街の層と層の間にある隔壁《かくへき》は、厚さ一〇メートルほど。そのスペースはエネルギーの生産施設として利用されているのだろう。  建宮や五和は入り組んだスペースを通りながら、あちこちにワイヤーを張ってトラップ術式を構成する。これだけでアックアが倒れるとは思わないが、時間が稼げればそれで良い。  天草式が目指しているのは、ひたすら下。  とにかくアックアのいる第三階層から、無害な第四階層へ一度撤退《てつたい》する事で時間を稼ぎ、その間に『本命』となる術式の準備を終わらせようとしているのだが、 『良いものを見せてもらったのである。こちらも返礼をしよう』  不意に薄暗い空間に太い男の声が響いた。  何度も反響する声は、音源の方向を掴《つか》ませない。 『「|神の力《ガブリエル》」の性質を秘める私が、何を司《つかさど》るかくらいは理解しているのであるな』 「ッ!?」  反応を見せるだけの余裕もなかった。  突如《とつじよ》、コンクリート空間を縦横に走る巨大なパイプが、内側から勢い良く破裂した。直径一メートル超、厚さ五センチを超える水道管が紙のように引き裂かれ、ギターピックほどの金属片が無数に撒き散らされる。バヂバヂッ!! とオレンジ色の火花が方々で炸裂《さくれつ》する。高速で飛来する金属片がコンクリートに直撃し、辺りを跳ね回っているのだ。 『水は容易に体積を変えられるものであってな。上手に使えば爆弾にもできる』  ドガガガガッ!! と四方八方の水道管が次々と爆発した。  水と水蒸気の混合物に押し出されるように、大量の金属片が散弾の豪雨と化して天草式に襲いかかった。ようやく反応を示した五和が顔面に飛んできた金属片の一つを槍《やり》で弾《はじ》くが、逆にこちらの体が薙ぎ倒されそうになる。  その破壊力《はかいりよく》もさる事ながら、五和にはもっと気になる事があった。  水道管が破裂する寸前、光る文字のようなものが見えたのだ。  浮かび上がるのは|laguz《ラグズ》。  記号的な一文字の正体は、 「なっ……水のルーン!?」  極めて凡庸《ぼんよう》な、基本であるが故に代表的とまで呼ばれる魔術《まじゅつ》。 『その反応……私が贈ったテッラの死体から、少しは「神の右席」を学んだのであるか?』  イギリス清教からの報告によれば、『神の右席』はその肉体が人間よりも天使に近くなっているため、特別な術式を扱える反面、一般的な魔術師の扱う術式は行使できないという話だったはずなのに……。 『驚《おどろ》くような事であるか。確かに「神の右席」は普通の人間が使う魔術を扱えない。しかし私の持つ聖母|崇拝《すうはい》の術式は、そういった約束・束縛《そくばく》・条件から免除される効力を持つのである』  聖人と『神の右席』の力を同時に扱い、  その上、人間と天使の術式を完璧《かんぺき》に掌握《しょうあく》する。 『おかしいとは思わなかったのであるか。最初の襲撃《しゆうげき》の際、一体どこの誰が「人払い[#「一体どこの誰が「人払い」に傍点]」などというポピュラー極まりない魔術を使ったのかという事に[#「などというポピュラー極まりない魔術を使ったのかという事に」に傍点]』  攻撃の種類も威力も圧倒的に違う。  質と量を同時に備える怪物は、余計な感情を挟まずに、ただ事実として述へた。 『この後方のアックアを、そこらの「神の右席」如《ごと》きと同列に見てくれるなよ』 (くっ……ッ!!)  さらに複数の水道管が破裂し、しまいには水力発電に使われるタービン装置そのものが爆発して襲《おそ》いかかってきた。巨大な回転刃のように向かってくるタービンのプロペラを見て、五和《いつわ》は階段を使わずに金属製の手すりを飛び越し、そのまま一気に闇《やみ》の奥へと落下する。床に設置されたハッチ状のドアを槍で突き破り、身を乗り出すように外へ出ると、そこが今までいた第三階層から一階層分下のフロアである、第四階層の天井《てんじょう》部分だった。  床から二〇メートルほどの高さにある空間。天井に沿うように金属製の細い通路や階段が縦横に走る光景は、演劇の舞台のようにも見える。そして真下に広がるのは、第四階層の街並み———ではなく、巨大なプラネタリウムのスクリーンだった。地上部のカメラが撮影した空の様子を映し出すものだ。街を覆《おお》う巨大な布地は、規則的に配置された無数の細い柱とワイヤーによって、天井部から吊《つ》るされていたのだ。  だが、今の五和にその奇怪な光景に目を奪われているだけの暇はない。 「……ッ!! アックアは———ッ!!」 「ここだ」  不意に真横から声が聞こえたと思った時には、すでに風圧があった。そちらを振り向く前に反射的に五和の槍が動く。放たれた重たい一撃を受け止めた———そう周った瞬間《しゅんかん》五和の体は水平に一五メートルほど吹き飛ばされていた。防御した槍ごと薙ぎ払われたのだ。  ゴッシャア!! という鈍い音が後から耳に響く。 五和《いつわ》は全身を襲うダメージをどうにか耐え、着地体勢を取ろうとした。しかし足場がない。為《な》す術《すべ》もなく五和の体が巨大スクリーンの上へと落下していく。  と、意外にもスクリーンは破れずに、五和の体を支えた。どうやら|天井部《てんじょうぶ》からの落下物を防止する役目も負っているらしい。  不安定に沈む足場も気にせず、五和は槍《やり》を構え直して前を見る。  後方のアックア。  五和の槍とは比べ物にもならないほど巨大なメイスを肩に担《かつ》いだ男は、自らも手すりから飛んでスクリーンの上へ着地した。 「さて、小手調べはこの辺りにしておこう」  担いだメイスを構え直し、アックアは静かに語る。 「互いに武器を手にしているのなら、これを打ち合わせぬ道理はなかろう」 「……そうですね」  五和は応じるように十字状の穂先《ほさき》をアックアに向け直し、ゆっくりとした調子で語る。 「ただし、私一人とは限りませんけど」  言った途端《とたん》、アックアの頭上にある天井部のハッチが次々と開いた。そこから現れたのは天《あま》草式の人間だ。その誰《だれ》もが傷を負い、衣服のあちこちを赤く汚しているものの、未《いま》だに数は欠けていない。  総勢五〇名、一〇〇の眼球がアックアを捉える。  対して、怪物は恐れすら抱かなかった。 「構わん」  ゆらりと。  一歩も動いていないのに、ただ重心だけが下に落ちる。 「来い」  その言葉と同時に、天草式の全員が後方のアックアヘ飛びかかる。      8  五和は正面からアックアの元へと飛び込んでいく。  星空を映す巨大なスクリーンの上に乗るアックアがそれに応じる前に、左右から後方から上空から、次々と刃を持った天草式の少年|達《たち》が襲いかかった。  二〇近い切っ先がアックアの体へ向かい、仮にそれを凌《しの》いだとしても、さらに三〇の切っ先が追加でアックアへ襲いかかる。  常人ならば、まず対処できぬ絶対の数。  しかしアックアは応じた。  バォ!! と巨大なメイスが空気を引き裂いた。上空を舞う牛深《うしぶか》と香焼《こうやぎ》が薙《な》ぎ払われ、わざと周囲へ撒《ま》いた衝撃波《しようげきは》が他者を襲う。吹き飛び崩れる前方の天草式《あまくさしき》を無視して、アックアは振り向きざまに真後ろへメイスを叩きつける。  一連の動きは ほとんど爆発だった。  アックアを中心に、天草式の手練《てだれ》が四方八方へと発射されていく。 「ッ!!」  追加攻撃を加える寸前だった五和《いつわ》は、思わずスクリーン上で足を止めようとした。  そこへ、アックアの体がスケートのように滑《すべ》りながら飛び込んでくる。  とっさに身構える五和の防御の網《あみ》をかいくぐるように、振り上げられたメイスはやや斜め方向から彼女の頭蓋骨《ずがいこつ》目がけて一気に振り下ろされる。  それは鋼鉄の雷光。  だがその一撃は五和に当たらない。  ボヒュッ!! という空振りの感触をアックアは得た。射程圏内にいたはずの五和が消えている。見れば、五和が着ていたはずの明るい色のトレーナーだけがメイスの先に取り残されていた。アックアは視線を手元から前方へ変更。少し離《はな》れた所に立つ五和は、どういう方法を使ったのか、上に纏《まと》っていたタンクトップはそのままに、トレーナーだけを脱ぎ捨てたらしい。  アックアはメイスを軽く振るい、布切れを捨てる。 「身代わりであるか」 「生憎《あいにく》と、それほど数はないものでして」  五和は十字の槍を構え直しながら静かに言った。 「あまり恥ずかしい事をさせないでくださいね」  言い終わるより前に、二人は再び激突する。  大地すら軽々と叩き割りそうなアックアのメイス。  しかし五和の槍が応じた。様々な術式で肉体を補強し、聖人の動きについていくための努力を重ねているのだろう。一撃、二撃、三撃と、アックアに対して半テンポほど遅れる挙動で、かろうじて五和は攻撃を弾き返す事に成功する。 「良い動きである」  アックアは高速でメイスを振るいながら、素直に敵を称賛《しようさん》した。 「しかし良いのであるか。徐々にリズムが遅れているようであるが」 「く……ッ!!」  じりじりと押されるように開いていく差。それが一定まで達すれば、アックアの一撃を止められず、五和の体は無数の肉片と化す。  そんな五和の応援に回るため、対馬や諫早といった天草式の面々が様々な角度からアックアへ攻撃を加えるが、恐るべき速度で放たれるアックアのメイスは、防壁のように攻撃を通さない。五和《いつわ》と刃を交えつつ、片手間のような素振りで周囲の天草式《あまくさしき》を牽制《けんせい》し、そして隙《すき》あらばルーンの文字を光らせて、高圧縮した水の塊で反撃に転じる。  猛攻をさばきながら、建宮《たてみや》は五和へ目配せする。 「(……『あれ』の準備の方はどうなってんのよ!?)」 「(……余裕がありまっ、せん……ッ!!)」 「五《いつ》……ッ!!」  一度態勢を整えるために建宮は叫ぼうとして、そこでアックアの一撃が来た。  思わず構えたフランベルジェが弾かれ、衝撃波《しようげきは》に薙《な》ぎ払われた建宮の体が巨大スクリーンの上を二回、三回と跳ね転がる。 「さて」  荒い息を吐く五和を見て、アックアはメイスを構え直す。 「何秒|保《も》つか楽しみである」  その言葉と共にアックアの全身の筋肉が一気に膨張《ぼうちよう》する。  アックアの射程から逃れるのは不可能。  巨大なメイスと五和の槍が激突する。かろうじて直撃は避けたが、そこが五和の限界だった。ドガガガガッ!! と二人の武器が激突するたびに、まるで攻撃を組み立てる歯車が欠けていくように、五和の速度が目に見えて落ちてくる。  反撃に転じる余裕などない。  完璧《かんぺき》に受け切れなかったアックアの攻撃の余波が、衝撃波となって足元のスクリーンを叩いた。おそらく防弾繊維でも織り込んでいるであろう特殊な布地が、まるでストッキングのように引き裂かれていく。  そのスタミナを削る地獄は、マラソンにも似ていた。  ただし、走者の背後から人肉をすり潰《つぶ》すミキサーがゆっくりと近づいてくるマラソンだ。  立ち止まれば死。  それでいて、無理に走り続けても限界を超えた体は砕け散る。  刃と鈍器のぶつかり合いだけがひたすら続く。 「ふ……っ!!」  アックアが息を吸い、さらに強力に踏《ふ》み込もうとした時、五和が動いた。  彼女は前へ出たのではなく、アックアの攻撃から逃れるように、思い切り後ろへ下がったのだ。  ほんの数メートルの、なけなしの逃避《とうひ》。  聖人としての運動能力を行使するアックアからすれば、一瞬《いつしゅん》で詰められる距離だ。だが五和にとっては決死の判断だったのだろう。全力で跳んだ結果、体のバランスを崩し、今にも倒れそうになっている。  五和《いつわ》は次の行動に移れない。  攻撃《こうげき》を回避《かいひ》する事も、防御する事も。 「ふん」  アックアはつまらなさそうに息を漏らし、とどめを刺すべく前へ。  空気を引き裂き、ジェット戦闘機《せんとうき》のような速度で必殺の間合いへ飛び込もうとしたアックアは、  ガクン!! と。  その動きが、何かに縫《ぬ》い止められるように停止した。 「なっ……っ」  アックアは驚《おどろ》いて自分の足元に目をやる。  彼の高速移動は、一種の術式に支えられたものだ。靴底と地面の間に薄《うす》い水の膜を張り、氷の上でタイヤがスリップするのと同じ理論で体を『滑《すべ》らせる』のだ。  その術式が、知らぬ間に破綻《はたん》していた。  天草式《あまくさしき》の五和に、アックアの術式を逆算し、破壊《はかい》するだけの余裕はなかったはずだ。現にそうした儀式《ぎしき》の動作は一切なかった。  だが、  気がついた時には、淡い光が割り込んでいた。それはアックアの足元からだ。不可思議な紋様が一気に広がり、アックアが使用していた移動術式を阻害する。  五和が受け止め損ねたアックアの攻撃。その余波は衝撃放となって足場となるスクリーンを引き裂いていた。そして引き裂かれた布地が描く模様そのものが一枚の陣を築き上げ、奇《く》しくもアックアの移動術式を妨害していたのだ。  偶然ではない。  天草式|十字凄教《じゅうじせいきょう》が魔術を扱う際に特別な呪文《じゅもん》や霊装《れいそう》などは用いず、どこにでもある日用品や行事の中に隠された魔術的記号を回収・再編成して術式を作り上げるのだから。  そして何より、  一瞬だが確かに隙のできたアックアを見て、  目の前の五和は薄く薄く笑っている。  前につんのめる形になったアックアに向けて、五和の槍《やり》が容赦《ようしや》なく突き入れられた。  ここに来てようやく放たれた、雷光の速度の反撃。  ゴッ!! と空気を引き裂く一直線の攻撃に、アックアは初めて回避行動を取る。 「くっ!?」  アックアは前後左右のいずれでもなく、上へ跳んだ。  不安定なスクリーン上であっても関係はない。アックアはたった一歩で五メートル近くまで一気に突き進み、スクリーンを吊《つ》り下げる細い支柱の一つに足を引っ掛ける。 「———建宮《たてみや》さん。それにみんなも!!」  それでも、五和の構えは変わらなかった。  彼女は腰を低く落とし、改めて|海軍用十字槍《フリウリスピア》の穂先《ほさき》をアックアヘ正確に突きつける。 「今こそ『本命』を!!」  五和が名を呼び、その全身に力を蓄えると、周囲に散らばっていたはずの天草式《あまくさしき》の面々が呼応した。あるいは五和に近づき、あるいは一定の決められた距離を取り、彼らの陣形が五和を中心軸に備えたものへとより一層強調される。  細い支柱に片足を引っ掛け、着地場所を探していたアックアは、眼下の風景の中で、意志や魔力といったものが五和に向けて一斉に集中していくのを確かに感じた。  それは前兆。何か巨大な事が起きる手前の第一波。 (来るか……ッ!!)  アックアが言葉に出す前に、五和が動いた。  コバッ!! という爆音が炸裂《さくれつ》する。  それが、人間の足がスクリーンを蹴った音だと知覚した時には、すでに五和はロケットやスペースシャトルのような勢いで夜空を突っ切っていた。あまりの威力に、巨大なスクリーンを吊る支柱のいくつかがへし折れた。圧倒的な加速で迫る五和の手には、おしぼりのような小さな布があった。それを使い、槍の柄を包むように槍を構え直している。 「管槍《くだやり》だと!?」  槍と掌《てのひら》の摩擦を軽減させる事で槍を突き出す速度と威力を倍加させる。  だが、五和のそれは本来の用途とは違う。 「喰らいなさい」  これから放つその一撃《いちげき》。  自身の掌《てのひら》を守るために細工をしなければ、魔術の途中で手首を失う羽目になる。 「———『聖人崩し』!!」  ドバァ!! と五和の手の中で槍が爆発した。  比喩《ひゆ》でも何でもなく、本当に五和の槍が雷光と化した。一直線に飛び出した鋭利な一撃が今度こそアックアの腹の真ん中へ容赦《ようしや》なく突き刺さり、青白い紫電がその背中から噴き出して、深夜の暗闇《くらやみ》を引き裂いた。圧倒的な摩擦《まさつ》によって槍の柄を掴《つか》んでいた布地が黒い煙を吐いて吹き飛ばされる。  轟音《ごうおん》と共に、アックアの背中から火花とも違う、光の十字架が上下左右へ爆発的に伸びる。 「……ッ!!」  アックアが何か一言を紡《つむ》ぐ前に、隠れた術式が発動する。  五和が———いや、天草式十字凌教の全員が放ったのは、文字通り『聖人崩し』。  聖人とは『神の子』と身体的特徴が似ているが故に、偶像|崇拝《すうはい》の理論によって『神の子』と同種の力を引き出せる才能を持った人間を差す。  ならば逆に、その『「神の子」と似た身体的特徴』のバランスを人為的に崩してしまう事によって、一時的に『聖人』としての力を封じてしまう事も可能となる。  唐突にバランスを失った『聖人』は、単純に力を失うばかりか、体内に残っていた力の制御すらままならず、自らの暴走に巻き込まれて身動きが取れなくなってしまうのだ。  かつて、  天草式十字凄教は、一人の聖人を失った事がある。  自分の強さが他者を巻き込んでしまう事を恐れて自分の居場所から立ち去った、優しい聖人。彼女を止めるだけの力すら持たなかった天草式の面々は一つの誓いを立てたのだ。  いつか、彼女の負担にならないだけの強さを手に入れよう。  今度は彼女の背中を追いかけ、その手を掴《つか》み、大丈夫《だいじょうぶ》だと言えるだけの強さを手に入れよう。  そうして血の滲《にじ》む努力によって得たのが『聖人崩し』。  聖人である彼女を支えるためには、聖人である彼女を正しく理解し、そしてその壁を越えなくてはならず、そして聖人である彼女が『脅威《きようい》』と思うような問題にさえ立ち向かわなくてはならない、という論理によって生み出された、 正真正銘、 天草式十字凄教だけが編み出す事に成功した、 『聖人を倒すためだけに存在する』専用特殊|攻撃《こうげき》術式。 (魔力の体内暴走による硬直時間は、おそらく三〇秒前後)  理論上においては『聖人だけに通じる』術式であり、それ以外の『普通の魔術師《まじゅつし》』には何ら影響のない攻撃術式。その特性上、わざわざ体を張って実験台に付き合ってくれる『聖人』などいる訳もなく、ある意味においてはぶっつけ本番の一本勝負。  しかし、五和《いつわ》には確かに手応《てごた》えがあった。  彼女はその手応えから有効時間を算出し、 (その持ち時間の全《すべ》てを使って、『ただの人間』になったアックアを完璧《かんぺき》に無力化させる!!)  だが、 「良い術式である」  今度こそ、五和の表情が凍り付いた。  雷光と化した|海軍用船上槍《フリウリスピア》が、いつの間にか元の形に戻っていた。五和が指示したものではない。外部からの力によって、強制的に術式を逆算・解除されている。  アックアの左手は腹に。  傷口を押さえているのではない。皮膚に触れるギリギリのラインで、彼の掌《てのひら》五和の槍を掴んでいる。おそらく五和の槍が雷光と化す直前に、アックアの腕が|海軍用船上槍《フリウリスピア》の切っ先を強引に掴んでいたのだろう。発射前に細工をされていたのだ。だからこそ特殊な雷光は、その矛先を微妙にずらされてしまった。 「私がただの聖人なら、ここでやられていたかもしれないな」  アックアの唇が歪《ゆが》む。  嘲《あざけ》りではない。強敵と巡り合えた喜びを示す笑みが深く刻まれる。 「だが惜しい」  左手一本で五和の槍を押さえたまま、アックアの右手が動く。  全長五メートルを超す、鉄塊《てっかい》そのもののメイスが。 「———私は聖人であると同時に、『神の右席』でもあるのだよ!!」  ドッパァ!! という轟音《ごうおん》が、無人の広場に炸裂《さくれつ》した。  衣服を利用した身代わりの術式を使う暇もなかった。  それが自分の体の出す音だと五和《いつわ》が気づいた時には、すでに呼吸が止まっていた。上から叩きつけられた彼女の体は、一秒もかからずに分厚い防弾|繊維《せんい》のスクリーンを突き破り、さらに二〇メートル下の地面へと勢い良く落下する。 「がっ、ァアああああああああああああッ!!」  途中で幾重にもわたって防御術式が張り巡らされる輝《かがや》きが見えた。おそらく天草式《あまくさしき》の面々だろう。五和白身も今あるものを使って、必死で落下速度を軽減させるための術式を組み立てようとする。だが、それら全《すべ》てを突き破って五和の体はアスファルトへ叩きつけられた。  灰色の粉塵《ふんじん》が、煙のように舞い上がる。  ボロボロになった五和は、砕けたアスファルトに埋もれながら、首だけを動かして頭上を見上げた。縦横に引き裂かれたスクリーンの向こう側で、何かが炸裂《さくれつ》した。ザバァ!! と波が岩を叩くような音が聞こえたと思った時には、その引き裂かれた亀裂《きれつ》から大量の水が噴き出してきた。何十トンにも及ぶ大量の水は巨大な腕とも竜の顎《あご》のようにも見えた。その圧倒的な質量に叩き潰《つぶ》されるように、天草式の人間がバラバラと落ちていく。いくつもの悲鳴が上がる。  ただ一つだけ、ふわりと羽毛のように着地する影があった。 「つまらん。数を揃え、策を練った所でもう限界であるか」  後方のアックアだ。  彼はほとんど潰れかけた五和のすぐ近くのアスファルトに足を乗せると、静かに語る。 「私が告げた期限まで、まだ幾ばくかの猶予がある」  プラネタリウムに使われていたスクリーン上から滝のように水が流れ落ち、方々で機械的な警告音が鳴り響いた。しかしアックアは動じない。来《きた》るべきは全て粉砕するとばかりに、泰然《たいぜん 》とした調子で五和を見下ろす。 「選択を与えよう。あの少年の右腕を差し出すか、ここで路上の染《し》みとなるか」 「……、」  返事はない。  しかし行動はあった。砕けたアスファルトの破片を掴み、ボロボロの体を動かして、血まみれの五和がまだ立ち上がろうとしているのだ。 「ならば仕方がない」  アックアは特大のメイスを構え直し、静かに語る。 「死を望むなら、波間に消えると良いのである」  メイスの先端《せんたん》が頭上を指し示す。  ドォ!! という爆音。  引き裂かれたスクリーンから滝のように落ち、今まさに第四階層を蹂躙《じゅうりん》しかけていた膨大《ぼうだい》な水が、アックアの意志に応じて大きくうねる。サイズは全長二〇メートル弱。まるで地面から生えた、建設重機についているアームのような関節を持つ巨大なハンマーが、地上を這いずる獲物を足元の大地ごと狙《ねら》うように。  五和《いつわ》は目を瞑《つぶ》らなかった。  だからこそ、彼女は最後の最後で気づいた。  ふと、アックアの手が止まった事に。  ゾン!! と。  不意に、辺り一面に、得体の知れない殺気が充満する。  それは後方のアックアから放たれたものでも、周囲に倒れている建宮《たてみや》や牛深《うしぶか》といった天草式の仲間達から放たれたものでも、まして満身創痍《まんしんそうい》の五和から放たれたものでもない。距離も方向も分からない、ただ確かな敵意の感情。アックアは手を止めて、標的から別のものへと注意を向ける。アックアほどの人物であっても注意を向けざるを得ない何かが、すぐ近くに存在するのだ。 「……なるほど」  後方のアックアはわずかに呟《つぶや》き、そして笑った。  一度は五和も間近で見た、強敵を前にした時の表情。だが今回は、五和に向けられたものよりも何倍も何十倍も、深く深く刻まれている。  第四階層の空中をうねっていた数十トンもの水の塊《かたまり》が、解ける。魔術的《まじゅつてき》な制御を失った膨大《ぼうだい》な水は人工的に作られた川へと身を沈め、津波のように巨大な波紋を撒き散らして提防を水浸しにする。  アックアは肩の力を抜き、巨大なメイスを肩に担《かつ》ぎ直した。  そして一度だけ、五和の顔を見て言った。 「命拾いしたのであるな。貴様の主に感謝しろ」  バン!! という爆音が響《ひび》いた。  そう思った時には、すでに後方のアックアは消えていた。あまりの速度に、肉眼で追い掛ける事すらできなかったのだ。  五和は呆然《ぼうぜん》と、誰もいなくなった前方を眺めていた。  生き残った。  アスファルトもコンクリートも砕け、爆撃《ばくげき》直後のようになった瓦礫《がれき》に大量の水をぶっかけたような惨状の中でその事実を噛み締めても、嬉しさはなかった。明確に負けたかどうかすら曖昧な結未。どう判断すれば良いのかも分からないまま、五和はただアックアの言葉を頭の中で繰り返す。 「……貴様の、主に、感謝しろ……?」  五和《いつわ》は首だけを動かし、辺りを見る。  アックアが直前に見ていたであろうモノを追いかけたかったのだが、そこには何もなかった。アックアが消えたのと同じく、ただの暗い闇《やみ》が広がっているだけだった。      9  五和が落下した路面から二〇〇メートルはど離《はな》れた場所。  コンクリートによって固められた河原は、小さな展望台になっていた。『人払い』によって完璧《かんぺき》に人気のなくなった冷たい施設に、二人の聖人は立っている。  一人は後方のアックア。  そしてもう一人は……、 「私の『仲間』達が、世話になりましたね」  長身に白い肌。黒い髪は後ろで束ねても腰まで届く。服装は腰の所で絞ったTシャツの上からデニム地のジャケットを羽織っていて、下はジーンズ。ただしジャケットの右腕部分は肩の所から切断され、逆にジーンズは左脚部分が太股《ふともも》の所から切断されている。  だが、それら十分個性的である格好は、たった一つのアイテムによって吹き消されていた。  ウエスタンベルトに差した、一本の刀。  全長二メートルを超える日本刀の銘は『七天七刀《しちてんしちとう》』。 「そういえば、極東には一撃《いちげき》必殺を信条とする聖人がいたのであるな」  アックアは満足そうに頷《うなず》く。  国家や組織に所属する聖人は、そうそう簡単にあちこちで活動する事はできない。この聖人はそれらのリスクを受けてでも、アックアの前に立ったのだろう。  彼は、改めてメイスを握り直す。  ようやく『弱い者いじめ』ではない、本当の戦いを楽しめると言外に語っている。 「しかし天草式《あまくさしき》の聖人は戦闘《せんとう》を嫌《きら》う性根と聞いているのであるが、私と戦う度胸はあるかね」 「ええ」  彼女は、 「私もそう思っていたのですが、どうやら私は自分で考えていたよりも、ずっと幼稚な人間だったようです」  神裂火織《かんざきかおり》は、 「彼らが蹴散《けち》らされる様子をまざまざと見せつけられたせいでしょうか。いけませんね、こんな魔法名《まほうめい》を背負っているのに。『怒り』は七つの罪の一つだと、そう教えられたはずなのに」  かつて女教皇《プリエステス》と呼ばれた聖人は、瓦礫《がれき》の闇すら吹き飛ばすように、  ただ鮮烈に君臨する。 「ぐだぐだと悩むのはやめましよう。彼らの決意を無駄《むだ》にはしない。それだけで十分です」  理不尽《りふじん》な暴力を受けて倒れた少年のために。  その暴虐《ぼうぎやく》を止めるために立ち上がり、圧倒的な力によって蹂躙《じゅうりん》された仲間達のために。  彼女は握り潰《つぶ》すように、刀の柄《つか》へ手を伸ばす。  二人の『聖人』の眼光が、正面から激突した。  それが合図。  世界で二〇人といない怪物と怪物の戦いが、ここに幕を開ける。 [#改ページ]   行間 二  オルレアン騎士団《きしだん》。  フランス最大の魔術《まじゅつ》結社。それが少年に絶望を与えた名前だった。  その『組織』は、元々はジャンヌ=ダルクの人柄に惹《ひ》かれ、公式の戦力とは異なり、陰ながら彼女の歩みを支えるために集まった有志によって結成された。魔術の扱いに特化した特殊な『組織』という訳でもなく、ただフランスを救いたいという目的さえ持っていれば身分や地位、家柄などは関係なく、(当時としては極めて珍しい事に)貴族から農民までありとあらゆる人人が肩を寄せて笑い合うような、そんな、『組織』であったはずだった。  しかし、一四三一年五月三〇日、彼らの方向性を決定的に歪《ゆが》める出来事が起きた。  イギリスに捕らえられたジャンヌ=ダルクが背信者として焼き殺されたのだ。  以降のオルレアン騎士団は『ジャンヌ=ダルクの復讐《ふくしゆう》』を掲げる一種異様な『組織』に変《へん》貌《ぼう》する。直接的にジャンヌ=ダルクを処刑したイギリスの殲滅《せんめつ》はもちろん、ダルクの害となったフランスの兵や貴族、ダルクに救われておきながら、ダルク奪回のために具体的な行動を取らなかったフランス国民に至るまで(厳密にはやろうと思ってもできなかったのだが、情状|酌《しやく》量を認める『組織』ではない)、『復讐』の対象は極めて広範囲の人々に向けられていった。  いかにフランス最大の魔術結社といえど、それら全《すべ》てを同時に敵に回しては、勝算は薄《うす》い。はずなのだが、彼らはその事実に気づかない。  オルレアン騎士団には、一つの希望がある。  ジャンヌ=ダルクは、生まれながらに特別な才能を持っていた訳ではない。彼女は二二歳の時に『特別な声』を聞き、そこから一気に能力を開花させる事となった経緯がある。  オルレアン騎士団は、その『ダルクの神託』を求めた。  ダルクのように誰《だれ》かを守るためではなく、自らの復讐、ただそれだけのために。  私情で奇跡を願う者に神の手は差し伸べられないと、何故誰も気づかなかったのか。必然的にオルレアン騎士団は『神秘を取り扱う集団』へと変貌し、その特色も魔術の匂いの強いものになっていく。  そして数百年の時が流れ オルレアン騎士団の人員も何世代にわたって交代していき、彼らはダルクの力を持つ者の人工的な量産作業という『できるはずのない実験』を未だに繰り返していた。  そんな中で巻き込まれたのが一組の少年と少女。 『ダルクの神託』の『素体』として一人の少女が半ば強引に選ばれ、少年はそれに対抗した。少女を逃がすためにありとあらゆる策を講じ、持てる力の全てを使って奮闘し———そして敗北した。  今、少年の側《そば》に少女はいない。  瀕死《ひんし》の少年が最後に開いたのは、『信じている』という少女の声。  しかし、少年には立ち上がるだけの力がなかった。  そんなものが残されているなら、あの時とっくに使っているはずだった。  腐った路地の中、少年は汚い地面に倒れている。 「それで、貴様はそこで這《は》いつくばって、全てを諦める気かね?」  声が聞こえた。  フリーの傭兵だと言った屈強な男。  オルレアン騎士団《きしだん》の横暴を止めるためにフランスへ入国したらしい。そこで一組の少年と少女に出会い、少女を逃がすために陽動を買って出てくれたのだが……肝心の少年があまりにも弱すぎて、結局少女は連れ去られてしまった。 「どうしろって、言うんだよ」  倒れたまま、少年は呟《つぶや》く。  手を伸ばせば、鞘《さや》に収まった剣に手は届く。コリシュマルド。スポーツで使用されるサーベルを軍用に改良した、少年が片手でも扱える軽量なフランスの剣。それでもボロボロになった彼の手は、熱湯を恐れるように鞘へ触れる事すらためらわれる。 「僕は、特別な人間なんかじゃない。その場にあるものだけで、どんな危機でも乗り越えられるような人間じゃない!! 勝てる訳がないじゃないか。相手はフランス最大の魔術《まじゅつ》結社なんだぞ! そんなもん相手にどう戦えって言うんだよ!!」 「だから、彼女の事は諦めるのか」 「……、」 「それを容認できないから、貴様は立ち去る事なく、いつまでもこんな所で這いつくばっているのではないのか」 「……、」  少年は答えない。答えられない。  泥と傷でボロボロになった体を動かし、何とか上半身だけは起こすが、そこが限界だった。体力だけでなく、気力まで折れているのだ。  傭兵は気遣わない。 「くだらん絶望など、している暇はない」  彼はいつまで経っても少年が拾おうとしない、鞘に収まった剣を手に取り、 「敵は強大であり、そしてその目的に対する実行力を鑑《かんが》みれば、彼女がこれから迎える運命は明白である。ならば、貴様がここで考えるべきはただ一つのはずだ」  すなわち、とそこで傭兵《ようへい》は言葉を区切って、 「あれだけの絶望的な状況で、それでも彼女は貴様を『信じている』と言った事である」  少年の中で、時間が止まる。  傭兵の言葉だけが、続く。 「貴様はどうする。愚か者の少女が描いた夢を守るために、もう一度立ち上がるか。それとも、愚か者の少女に現実を教え、さらに深い絶望を与えてやるか」  傭兵は剣の鞘《さや》を掴《つか》み、いつまで経っても立ち上がろうとしない少年の鼻先に、彼が勇気ある者として振るうべき剣、コリシュマルドの柄《つか》を突きつける。 「選べ。貴様はどちらを選択する」  悩むまでもなかった。  考えるまでもなかった。  目の前に積み上げられた問題は山のよう。あちこちに散らばるリスクは星の数。だが関係ない。それを悩むのは、それを考えるのは、まず動き出した者にだけ許される特権。  少年は立ち上がる。  満身創痍《まんしんそうい》の全《すべ》てを無視して、傭兵に突きつけられたフランス製の細い剣の柄を掴み取り、固定用の細い金具を外すと、己の武器、コリシュマルドを鞘から勢い良く引き抜いた。 「———良い選択である」  傭兵が笑う。  少年の表情は変わっていた。彼は傭兵の隣《となり》に立ち、全く同列の存在として肩を並べ、戦友と共に暗い路地の出口を———倒すべき敵と、救うべき少女のいる『隠れ家』のある方角を見据える。 「行こう」  少年は静かに告げた。 「怯《おび》える時間は、もう終わりだ」  敵はフランス最大の魔術《まじゅつ》結社、オルレアン騎士団《きしだん》。  歴史的な復讐《ふくしゆう》に走るプロの戦闘《せんとう》集団を相手に、これより本当の反撃《はんげき》が始まる。 [#改ページ]   第三章 桁の違う怪物同士の死闘 Saint_VS_Saint. 1  世界が破裂する音を聞いた事があるだろうか。  それは爆音や衝撃波《しようげきは》の領域すら超えていた。人間に聞き取れる範囲をはるかに超えた、世界が放つ苦痛の悲鳴。悲鳴の余波の余波、その切れ端になって初めて爆風と化す。悲鳴の切れ端は街路樹の枝を吹き飛ばし、第四階層のコンクリートの地面をビリビリと振動させ、金属製の手すりを飴《あめ》細工のように捻じ曲げる。  神裂火織《かんざきかおり》と後方のアックア。  科学に埋め尽くされた街の中、二人の聖人の激突だけが、深夜の展望台にある全《すべ》てだった。 「おおおァあああッ!!」  裂帛《れっぱく》の気合と共に神裂の手から放たれるのは、神速の抜刀術。特定の宗教に対し、別の教義で用いられる術式を迂回《うかい》して傷つける事によって、一神教の天使すら切断する事を可能にした必殺の一撃だ。  十字術式にできない事は仏教術式で。  仏教術式にできない事は神道術式で。  神道術式にできない事は十字術式で。  互いの弱点をその都度適切な形で補い合う事によって、完全なる破壊力《はかいりよく》を生み出す無二の攻撃術式。  すなわち、唯閃《ゆいせん》。  何人《なんぴと》にも受け止める事のできないはずの斬撃《ざんげき》を、しかしアックアは巨大なメイスで弾《はじ》き返す。続けて複数の太刀筋《たちすじ》を見舞いながら、神裂は知る。アックアもまた、神裂と同等かそれ以上に多種多様な術式に精通しているのだ。ただの『神の右席』には不可能とされる、一般的な魔術《まじゅつ》を行使する能力を思う存分に発揮する形で。  神裂が仏教術式に迂回しようとすればそれに対応し、神道術式に転換しても即座に防御の型を変えていく。両者の間で莫大《ばくだい》な魔力が次々とその性質を変え、音速を超える肉弾戦の最中に別次元の『読み合い』という頭脳戦が並行して展開される。  物理と魔術。  肉体と精神。  騒乱《そうらん》と瞑想《めいそう》。  ガガガザザザギギッ!! と互いに武器をぶつけて火花を散らしながら行われる聖人同士の戦いは並行的に見えて、しかしその中に一つの大きなうねりが存在する。  一般に、魔術《まじゅつ》を扱うのに才能は不要とされる。  そもそも才能なき者が才能ある者と同じ奇跡を生むために生み出された技術こそが、魔術なのだから。  しかし、彼らの動きを見てもまだ同じ事が言えるだろうか。 『聖人』という、極めて特殊で異例な才能を見ても。 「……素晴らしい。たった一人の危機にこれほどの人員・戦力が駆けつけるとは、大した人望。あの少年、敵ながら見事である」  五メートル強もの鉄塊《てつかい》を木の枝のように軽々と振り回しながら、アックアは言う。 「しかし覚悟しろ。我が戦場に立つと言うのなら、蹴散《けち》らす他《ほか》に道はない!!」  ゴァ!! という新たな爆音が炸裂《さくれつ》する。  神裂《かんざき》の背後は暗い川。その黒い水面が揺らいだと思った時には、二〇メートル近い水柱が上がっていた。それは関節を持つ巨大なハンマー。恐るべき鈍器は地下市街の天井を掠《かす》め、そのまま頭上から神裂を叩《たた》き潰《つぶ》そうと迫る。  アックアとの連撃《れんげき》だけで手が一杯というのなら、ここで対処しきれずに神裂は死ぬ。  しかし、  ドバッ!! という切断音が響く。死闘を繰り広げる神裂の周囲で何かがキラリと光ったと思った瞬間、七つの斬撃が後方から迫る水のハンマーを容赦なく切断し、川面に帰した。  ワイヤーを使った『七閃《ななせん》』だ。 「……この程度で全力と思われるのは心外です」  神裂の唇が動いた途端《とたん》、七つの斬撃は神裂の刀の軌道を補うように、様々な角度から一斉にアックアを襲う。  アックアの連撃速度がさらに上がる。  あるいはメイスで弾《はじ》き飛ばし、あるいは首を振って避け、刀とワイヤーの双方を凌《しの》ぎ切ったアックアの眼前を———突如《とつじょ》、紅蓮《ぐれん》の炎が埋め尽くす。 「———ッ!!」  空中を引き裂くワイヤーの軌跡が三次元的な魔法陣《まほうじん》を描いた。アックアがそう気づいた時には、すでに爆炎は彼の屈強な体を呑《の》み込んでいた。  さらに続けざまに二発、三発と爆発が続き、それらを引き裂くように七本のワイヤーが炎を切り裂き、最後に月明かりを浴びた刀が一閃する。  連続した昔は鳴らなかった。  あまりにも素早すぎて、音は数をなくした塊《かたまり》となる。  バァン!! と空間そのものを巨大な腕で引き千切《ちぎ》るような轟音《ごうおん》。  しかしアックアはそこにいなかった。  神裂《かんざき》の視線が正面から遠方へと移る。一〇メートルほど離《はな》れたコンクリートの地面に、アックアは飛び退《の》いていた。  その頬に、一筋の切り傷がある。  おそらくワイヤーに裂かれたものであろう、わずかな掠り傷。しかし、それは今まで何人《なんぴと》にも届かなかった傷だ。頬から赤い血を垂らしつつ アックアは静かに告げる。 「やはり天草式《あまくさしき》の一員。基本的にやっている事は同じなのであるな」  流れる血を人差し指ですくい、その指先をメイスの側面に押し付け、何らかの意味ある言葉を記しながら、 「だが、扱う者が聖人になるとここまで変わるのか。つくづく、才能とは残酷《ざんこく》なものである」  魔術とはオ能なき者の反乱の歴史。しかしそれを天が与えた『聖人』という言葉が容易に押し潰《つぶ》す。  投げかけられた言葉に、神裂はわずかに黙《だま》る。 「……、」  単に戦闘《せんとう》の結果だけを見れば、その言い分は正しいのかもしれない。  神裂のいない現天草式では、アックアに傷一つ負わせる事もできなかったのだから。  しかし、 「訂正をしていただきましょう」  神裂は手にした刀を鞘《さや》に収め、重心を低く落とし、抜刀の準備に入る。 「確かに、彼らに『唯閃《ゆいせん》』は扱えません。ですが、その土台となる剣術、鋼糸《ワイヤー》、術式、その組み立てと戦術のパターンは全て天草式の先達《せんだつ》に教えていただいたものです。この結果は才能などというちっぽけなものではなく、彼らの歴史が作り上げた結晶。私の学び舎《や》は天草式であり、私の師は私の仲間達です。それを侮辱《ぶじよく》する発言を認めるつもりはありません」  ミシィ!! と、刀の柄《つか》を握る手に力が籠る。 「まして、それだけの力を自覚しておきながら、ただの高校生に容赦《ようしや》なく振りかざすような外道《げどう》に、誰《だれ》かを見下すような資格などありません」  それは翻《ひるがえ》って神裂自身へと刺さる言葉。  とある目的のために、一度はあの少年を斬った神裂の、己に対する戒《いまし》めだ。 「……そこで怒りを覚える事自体、手ぬるいと評価しておくのである」  己の血で紋様を描いたメイスをゆっくりと構え直し、アックアは告げる。  一〇メートルの距離など、彼ら聖人にとっては目と鼻の先。  対峙《たいじ》する二人のイメージは、古き良き時代劇か、あるいは西部劇か。 「歩兵が偵察に出かけたところ、不意に敵の戦車と遭遇《そうぐう》した。……それが職場である。対抗策は必ず用意されているものではない。逃げ道や安全地帯、まして紳士のマナーなど存在しない。全く同じ条件をわざわざ揃え、勝敗の確率を五分五分に調整した上で戦う行為はスポーツと言うのである。才能とは、戦力とはそういうもの。適切な装備を持たずに戦車と遭遇《そうぐう》すれば、歩兵がどうなるかは考えるまでもない。容赦《ようしや》なく砲撃《ほうげき》を受け、ただ消し飛ぶのみ。貴様の戦場は違うのであるか?」 「それはあなたの論理です」 「だが、その領域に踏《ふ》み込んできたのは貴様達である」  アックアは嘲《あざけ》りすら向けず、ただ淡々と告げた。 「いや、あの少年に関して言えば、どこかの誰《だれ》かに引っ張り上げられたのであるか?」 「———、」  合図はなかった。  何の前触れもなく、神裂《かんざき》が動いた。彼女はプロの魔術師《まじゅつし》の目で見ても霞む速度でアックアの懐《ふところ》へ潜《もぐ》り込む。鞘《さや》の先がコンクリートの地面に接触していたのか、爆炎のような火花が神裂の軌跡を追い掛けた。しかし火花に追い着かれるより早く、抜刀された七天七刀《しちてんしちとう》の刃は容赦なくアックアへ襲いかかる。  ガッキィィン!! という甲高《かんだか》い金属音が炸裂《さくれつ》した。  神裂とアックアの得物《えもの》がぶつかり会い、二人は至近距離《きより》で睨《にら》み合う。 「それが分かっていながら、巻き込まれただけの一般人と認識しておきながら! 何故《なぜ》『聖人』としての力を叩きつけたんですか!?」  普段《ふだん》では聞く事もできない、感情|剥《む》き出しの怒号だった。  神裂とアックアが同じ聖人だからか。  あるいは、聖人としての性質が、過去に多くの人を傷つけた経験を背負っているからか。 「世界で二〇人といない、本物の魔術師ですら恐れるような力を振りかざせばどうなるか。そんな事も考えずに暴虐《ぼうぎやく》を働いていたんですか、あなたは!!」 「戦う理由だと。そんなものを語ってどうする」  そんな神裂に対して、アックアはあくまでも冷静沈着。 「己の行いに自信を持つ者に、歩んだ道のりへの言い訳など必要ない。行動の結果として意志が伝わる事はあろう。だが、初めから語るために用意された台本に、どれほどの真実が含まれている」  鍔迫《つばぜ》り合いを行う二人の間で、表面化した魔力が小規模の爆発を巻き起こした。メイス側面の血文字が起曝したのだ。その拍子に聖人達の距離が少し開く。  わずかにたじろいだ神裂と、不動の体勢で巨大なメイスを構えるアックア。  揺るぎなき強敵の芯《しん》を支えるのは、おそらく一つの信念。  だがそれが、神裂|火織《かおり》には全く見えない。 「見せてみろ、魅東の聖人」  アックアの全身が、秘める気配が、一気に二回りも膨《ふく》れ上がる。  単に筋肉だけの問題ではない。まるで、彼の持つメイスの根元から先端《せんたん》までもが重量、重圧を増したように見えてくる。 「口先だけの言葉ではない。その刃に籠《こ》めた理由を、ただ無言のままに示してみせろ」  そして再び聖人|達《たち》は激突する。  何人《なんぴと》にも追い着けぬ速度で、何人にも叶《かな》わぬ力を振るって。      2  上条当麻のまぶたが動いた。  それは自分の意志で動かしているとは思えないほどわずかなものだ。ほとんど痙攣《けいれん》にも近い感覚で、ゆっくりと、ゆっくりとまぶたは細く開く。それでいて、数秒は視界が確保されなかった。フォーカスの遠近が揺らぎ、ようやく病院の天井《てんじょう》らしきものを脳が認識する。 (……俺《おれ》、は……)  ここがどこなのか、上条には分からなかった。あるいは見覚えがあっても、その視覚情報を脳が処理できていないのかもしれない。目に映った風景よりも、鼻から嗅《か》いだ消毒用のアルコールの匂《にお》いの方が手っ取り早く知覚できた。 (……どう、なった……んだ……)  胸や腹に、粘着テープのような感触があった。おそらくデータを採るための電極を貼《は》り付けられているのだろう。  部屋の照明は落とされていたが、誰《だれ》かの気配があった。布団《ふとん》の腹の辺りに、わずかな重圧を感じる。目だけを動かしてそちらを見ると、ベッド横のパイプ椅子《いす》に座っているインデックスが眠っていた。長い髪に隠れて表情は見えないが、おそらく大分前から付き添ってくれていたのだろう。  その事に上条はほんの少しだけ胸が痛んだが、 (……、)  だらりと下がった己の手に、わずかな力が戻る。  意識が戻るのに呼応して、頭の中に血液が巡るのが分かる。  後方のアックア。  五和。  天草式。  上条は鉄橋から投げ飛ばされて意識を失ったが、彼らの戦いは続いているはずだ。そうであって欲しい。もちろん『天草式が勝って戦いが終わった』可能性もゼロではない。しかし、彼らには悪いが、どうしてもそのビジョンは頭に浮かばない。後方のアックアは正真正銘《しようしんしょうめい》の怪物だ。自分のような高校生が立ち向かった所でどうにかなる訳ではないのは分かるが、それでも戦力は少しでも多い方が良いに決まっている。  アックアは、上条の右手に宿る力を危険視していた。  ならば逆に それを使えば戦況に影響を与えられる可能性も残っているという事だ。  神様の奇跡でも打ち消す事のできる、この右手。  その存在を確認し、そして上条は一人で頷《うなず》く。  彼は机に伏せるように眠っているインデックスを、もう一度見た。  心の底から心配してくれているであろう一人の少女。 (……悪い、インデックス。後で、死ぬほど謝る……)  しかし、 (だから、今はやるべき事をやらせてくれ)      3  バォォ!! という爆発音が深夜の学園都市に炸裂《さくれつ》する。  炎による爆風ではない。水による爆風だった。  アックアの魔術《まじゅつ》によって膨大《ぼうだい》な川の水が操られ、地下市街の天井を掠《かす》めるような巨大なハン マーを神裂《かんざき》のワイヤーが容赦なく叩き切る。建設重機のアームのような形状だったトン単位の水の塊は一瞬で水蒸気となって撒き散らされ、それらは再びアックアの手で操られ、キラキラと瞬くダイヤモンドダストへと変貌する。  アックアが制御するのは『ハンマー』一つではない。  直径二キロ近い第四階層の全てが、もはやアックアに掌握されていた。元々人工的に掌握《しょうあく》されていた川は完全に干上がり、一滴残らず宙に浮いている。それらは細い線となって第四階層の隅々まで張り巡らされ、複雑怪奇な魔法陣《まほうじん》を形成していく。  陣が組まれ、切り替わり、形を成すたびに、様々な術式がアックアを援護する。  多種多様な攻撃《こうげき》が神裂を襲う。  一つ一つが三〇メートル近い氷の槍が複数飛んだ。  鞭のようにしなる水の尾が様々な角度から襲いかかった。  ボール状の巨大な塊が縦に振り下ろされ、また横に薙《な》ぎ払われた。  それらの隙間《すきま》をかいくぐり、アックア自身が神裂の懐へ踏《ふ》み込んだ。  ———それぞれが必殺と言える攻撃を複数組み合わせ、さらに死亡率を跳ね上げた上での戦略。アックアの予想では、七〇秒で神裂の手は遅れ致命傷を負うはずだった。 「ッ!!」  だが、その期限を過ぎても神裂は反撃する。  次々と形を変える水の魔法陣に対し、神裂も七本のワイヤーを四方八方へ引き伸ばし、即席の結界を作ってこれに応じる。地力では負けている事を覚悟した上で、時に水の線を引き裂き、時に水の線の中に潜《もぐ》って軌道を捻じ曲げ、アックアの魔術《まじゅつ》を失敗させ、または途中で乗っ取り利用する。  もはや電子戦にも似た、魔術によるハッキングだ。  水と鋼糸《ワイヤー》。二つのネットワークが互いを食い破り、隙を突き、裏をかき、限りある世界の主導権を奪い合っていく。  世界が無数の光線に染まる。  アックアの魔法陣を構成する水と、それを打ち破る神裂のワイヤー。  地下市街の全域を埋め尽くすアックアと、その中にぽっかりと空いた神裂。  圧倒的な魔術戦を頭脳で行いながら、しかも同時に武術としての直接的な肉弾戦をも並行的に展開させる。  どちらか片方すら並の魔術師では追い着けない所業を、二つ同時にこなしていく。  複数の爆音が炸裂する。  神裂とアックアの体が空間に霞《かす》む。  鋼《はがね》と鋼は様々な角度から振るわれ、交差し、激突する。 (聖母|崇拝《すうはい》術式の使い手……)  刀とワイヤーと魔術《まじゅつ》を同時に振るいながら、神裂《かんざき》は歯を食いしばる。  その表情を作るのは、単に苦痛だけではない。  十字教術式の厳格なルールを歪《ゆが》める特別な法則。アックアはそう言うが、本来、聖母崇拝はそんな事のためにあるものではないはずだ。それは敗者復活のチャンスなのだ。あるいは罪を犯し、あるいは神を捨てるほどの悲劇に見舞われ、一度ルールからあぶれて道を踏《ふ》み外した者のために、聖母の像は涙を流し、夢の中で微笑《ほほえ》み、そして奇跡を実行するカギを与える。人々はそれを起点に、ただただ一心に祈るという形で無自覚に術式を行使する。  だからこそ人によっては無秩序に奇跡を撒き散らすと言われる『神の子』以外の者を信仰していると誤解される。だが違う。聖母崇拝の本質は、教会と聖職者の作るネットワークの隙《すき》間《ま》を縫《ぬ》うように起こる悲劇を止めているだけだ。聖母は十字教社会を乱すものではない。人々が膝《ひざ》をついて拝み、家族の、友人の仲間の無事を祈るのには、それだけの理由が存在するのだ。  聖母崇拝。 『神の子』を産むという十字教史上最高の偉業を成し遂げた、歴史上でも最大クラスの聖人。人々に安息と救いを与えるために天使の言葉を受け入れ、『神の子』を身籠《みごも》り、夫と共に苦難と試練の道を歩む覚悟を決めた聖母と、そんな彼女を慕《した》う人々の気持ちが作った信仰の結晶。  それを。 (その想《おも》いを……ッ!!)  まっすぐな祈りの形で表現される聖母崇拝術式は理屈の解明が難しく、全く的外れな石像が奇跡のアイテムとして報告された例も多数あった。それに便乗した詐欺師《さぎし》も横行した。だがアックアはそれよりも性質《たち》が悪い。正真正銘《しようしんしようめい》、本物の奇跡を使って暴虐《ぼうぎやく》を振るっているのだから。 「大したものである」  長刀と鈍器がぶつかり合う轟音《ごうおん》の中、アックアの声が通る。 「直径二キロ、質量五〇〇〇トンの陣を、力技で捻《ね》じ伏せに来るとはな」  だが、とアックアは続け、 「———その体、すでに限界に達していると見えるのであるが?」 「ッ!?」  その指摘に神裂の動きがわずかに鈍った所で、アックアの攻撃がさらに苛烈《かれつ》さを増して襲いかかる。  一瞬で差を引き離されそうになり、しかし神裂はさらに逆転し返すべく刃を振るう。 『唯閃《ゆいせん》』発動時の神裂は生身の肉体で制御できる運動量を超えたパワーを強引に引き出している。そんな状態で長時間の戦いなど行えるはずもなく、だからこそ神裂の『唯閃』は必然的に、一発で勝負を決められる抜刀術という形で研ぎ澄《す》まされていった。  だが、アックアに一撃《いちげき》必殺は通じない。  同等かそれ以上の力をもって立ち塞《ふさ》がるアックアは、聖人としての力に加えて『神の右席』という特性までも利用して、己の肉体を徹底的《てっていてき》に強化している。神裂《かんざき》ですら瞬間的《しゅんかんてき》に踏《ふ》み込む事がやっとの世界を、後方のアックアは悠々と突き進む。  まるで天使そのものだ、と神裂は奥歯を噛《か》んだ。  後方のアックアが司《つかさど》るのは『神の力』 (ミーシャ=クロイツェフというのも、事実上は不完全な顕現だったようですが……)  奇《く》しくも、一度だけ戦った事のある、あの『大天使』の名を冠した本物の強敵。 (それにしても、おかしい。アックアには、それ以上の何かを感じる……ッ!?)  似たような許容量を持つ聖人とは思えぬ連撃。  不完全だったとはいえ、あの大天使に匹敵するほどの感触を与えるアックア。  だが、考えられるか。  本当にそれほどの力を秘めた場合、人間とは自滅しないものなのか。 「ふっ!!」  アックアが息を吐く音が聞こえる。  一瞬、ふわりという妙な感覚が神裂を包む。  それはアックアが苛烈《かれつ》な連続攻撃を止めて力の『溜め』を行ったのだと気づいた瞬間、渾身《こんしん》の一撃が来た。  真上から思い切り叩《たた》きつけられた巨大なメイスを、神裂は刀を横に構えて受け止める。その拍子に、ズシン!! という特大の衝撃《しようげき》が刀から腕、胴体、足へと一気に走り抜け、ブーツを履《は》いた靴底が数センチほど地面へめり込んだ。足元は硬いタイルのはずなのに、まるで泥のように沈んでいた。  頭を殴られた訳ではないのに、脳震盪《のうしんとう》のような揺らぎが生じる。  だが受け切った。  そして全体重を乗せた渾身の一撃を放った直後のアックアには、隙が生じるはずだ。 「おおおおおおおおッ!!」  神裂は雄叫《おたけ》びと共に七天七刀《しちてんしちとう》を振り抜いた。  完璧なタイミング。絶好のチャンス、起死回生の一手。  にも拘《かかわ》らず、それすらアックアのメイスは受け止めた。ガッギィィ!! という鈍い衝撃波が、刀に込めていた威力を分散させられてしまった事実を広く喧伝《けんでん》していく。 「聖人同士の戦闘《せんとう》は三年ぶりである。久方ぶりに良い運動にはなった」  至近距離で、アックアは感情のない笑みを浮かべる。 「だが終わりにしよう。私は仕事をしに来たのである。『運動《スポーツ》』に興じる暇もない」 「ッ!?」  神裂《かんざき》はまともに応じず、一度引いた刀をより強く振るい、苛烈な一撃《いちげき》を見舞う。  しかしアックアは眼前にいない。  視力ではなく気配で神裂は察知する。標的は頭上。アックアの体が真上に二〇メートルほど飛び上がっていた。常人には不可能な、まるでロケット発射のような跳躍《ちょうやく》。空中の一点と化したアックアは、『神の力』の象徴たる衛星・月を背にしていた。  厳密には違う。  夜空を映す、ビリビリに引き裂かれたプラネタリウムのスクリーン。  アックアは天井《てんじょう》近くで体を半転させると、作り物の天蓋《てんがい》へ足を乗せる。 「ッ!!」  神裂は即座に追おうとするが、先ほどのダメージと、何よりここまで蓄積した体の負荷によって、ほんの数瞬《すうしゅん》のラグが生じてしまう。  動きの止まった神裂を四方から取り囲むように寒気が包む。それは本物の武人だけが感知する生と死のリズム。戦闘《せんとう》という全体の流れが大きく揺らいだ時に垣間見《かいまみ》る、物質的には存在しないシーソーの『傾き』のような何か。  そして頭上のアックア。 「———|聖母の慈悲は厳罰を和らげる《THMIMSSP》」  アックアのささやきに応じて、その背後に佇《たたず》む月が爆発的な光を発する。違う。プラネタリウムのスクリーンに映像を映す機構が何らかの負荷を受けてショートしているのだ。バヂハヂッ!! と複数の火花が、得体《えたい》の知れないカウントダウンのように炸裂《さくれつ》する。  本物の月の光は届かないのに、本物の月の加護を受けている。  普通の魔術師《まじゅつし》ならばありえないこの理屈を、アックアの聖母|崇拝《すうはい》は強引に押し通す。 (これは……ッ!!) 青白い閃光《せんこう》を受けた鋼鉄のメイス全体に、莫大《ばくだい》な力が宿っていくのを神裂は知る。 「|時に、神の理へ直訴するこの力。慈悲に包まれ天へと昇れ!!《TCTCDBPTTROGBWIMATH》」  怒号と共に天井を蹴飛《けと》ばし、勢い良く下降するアックア。ただでさえダメージを負っていた偽《いつわ》りの空は、その一撃で完膚《かんぷ》なきまで破壊され青い静謐《せいひつ》が漆黒《しっこく》の闇と戻っていく。  一直線の落下。  そして振り下ろされる特大のメイス。  そこから放たれたのは、斬撃《ざんげき》や刺突や射出や爆発や破裂や分断や粉砕ではない。  ただ重圧。  上から下へと突き進む圧倒的な破壊力は、小惑星との激突すら凌《しの》ぐ。  その時、世界から音が消えた。  世界が破裂する音すらも、消えた。  必殺の一撃《いちげき》を放ったアックアを中心に、学園都市第二二学区第四階層の地面そのものが、直径一〇〇メートルにわたって容赦《ようしや》なく突き崩された。落下の衝撃《しようげき》はクレーターを作る事すら許さず、そのまま鋼鉄とコンクリートの地面を粉々に砕き、巨大な穴と化す。  シェルター級の硬度だろうが何だろうが関係なし。  直径一〇〇メートルもの崩壊《ほうかい》した大地は、そのまま下の第五階層へ降り注ぐ。  爆音と、震動と、粉塵が炸裂する。  どどどどどどどどどど、という破滅の音響が、いつまでもいつまでも鳴り響く。  第四階層の川や水力発電用のパイプが寸断されたせいか、滝のように水が降り注ぐ。 「ぐっ……ごほっ……」  そんな中に、神裂火織《かんざきかおり》は倒れていた。  攻撃自体は七天七刀で受け止めたものの、足元の大地の方が耐えきれなかったのだ。  莫大な重圧を受けて、瓦礫《がれき》の山と一緒に二〇メートル以上の高さから落ちた神裂は、コンクリートの塊《かたまり》の上で 仰向《あおむ》けに転がっていた。  その全身はボロボロだった。アックアの一撃が直撃しなかったとしても、重圧は武器を通して体を蝕《むしば》む。特大のメイスと人工の大地の間に挟まれた神裂は、腕と言わず脚と言わず胴体と言わず、ありとあらゆる所からドロリとした赤黒い液体をこぼしている。  世界で二〇人といない聖人でさえ、この有り様だった。  もう一度同じ攻撃を食らえば、今度は絶命するという計算がすぐに導かれた。  だが、 「……、」  ギシリ、と奥歯を噛《か》み締《し》める神裂火織の顔に、恐怖や驚愕《きようがく》はない。  あるのは怒り。  クレーターの真下である第五階層。神裂の落ちた辺りは大きな広場になっていたせいか、不幸中の幸いにも犠牲者《ぎせいしや》はいないようだった。しかしそれは結果論だ。もしもここが住宅街だったら。たまたま広場を誰かが歩いていたら。そう考えただけで、神裂の背筋に寒いものが走る。 どうやら学園都市が何らかの処置を行っていたようだが、ここは第四階層と違って、最低限の魔術的《まじゅつてき》な『人払い』すら行われていないのだ。  同じ聖人のくせに。  世界で二〇人といない才能を持っているくせに。  どうして、こんなつまらない事にしか力を振るえないのか。 「アックア……」  傷だらけの体を引きずるように上半身を起こし、瓦礫の上に落ちていた七天七刀を掴《つか》み直し、神裂は掠《かす》れるような声で呟《つぶや》いた。  対して、同じょうに第五階層の地面へ荒々しく足を着けた後方のアックアは、 「幻想殺し《イマジンブレイカー》はどこにいる」  圧倒的な破壊《はかい》をもたらしたメイスを軽々と肩で担《かつ》ぎながら、 「それとも、一つ一つ層をぶち抜いて行けば、いつかは会えるものであるか?」 「アックアぁぁああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  己の血を振り撒くような勢いで、神裂《かんざき》は猛然と立ち上がる。  両手で構えた七天七刀《しちてんしちとう》はふらふらと揺れていた。  あまりにも強く握り締め過ぎたのか、彼女の爪《つめ》のいくつかは割れ、指と指の隙間《すきま》からは赤い血が垂れている。受け流しきれなかった莫大な衝撃《しようげき》が神裂の全身を内側から傷っけたのか、呼吸をしようとした彼女の口から、ごぼっ、と血の塊が噴き出した。  それでも、神裂の眼光だけは衰えない。  そしてその眼光が消えない限り、神裂の刃が止まる事はない。  己を鼓舞するためか、傷ついた呼吸器官を押してまで雄叫《おたけ》びをあげる神裂。同時に放たれた一撃をアックアがメイスで弾き、金属音が響き———そこから重なる金属音の連続が、一瞬で空気を爆発させた。  ドバァ!! という激突音が炸裂《さくれつ》する。  聖人と聖人が再び刃を交えた。  その簡単な事実を確認する方が遅れるほどの速度だった。  神裂火織《かんざきかおり》は七天七刀《しちてんしちとう》を高速で振るい、その隙間《すきま》を縫《ぬ》うように七本のワイヤーを走らせ、少しでも隙が生じれば刀を鞘《さや》へ戻し、莫大《ばくだい》な速度の抜刀術を放っていく。さらにワイヤーが描く三次元的な魔法陣《まほうじん》や神裂自身の足運び、鋼鉄と鋼鉄がぶつかるリズムなどを利用し、合間合間に炎や氷などの攻撃《こうげき》術式を生み出して断続的な奇襲を繰り広げる。  対するアックアは巨大なメイスで刀を弾《はじ》き落とす傍《かたわ》ら、『神の力』としての属性か、月光の片鱗《へんりん》を秘める夜気を吸収し、メイスの破壊力《はかいりよく》を増幅。さらには聖母|崇拝《すうはい》が示す『厳罰《げんばつ》に対する緩和《かんわ》』の特性を使い、『「神の右席」は普通の魔術《まじゅつ》を使えない』という条件を克服。音速を超える連続攻撃を繰り出しつつ、同時に真空刃や岩の塊《かたまり》などを使って多角的に神裂へ攻め込んでいく。  ドガガガザザザギギギギギッ!! と火花が飛び散った。  神裂とアックアの周囲に小規模の星空が舞う。 「ごっ、ふ!?」  しかし結果は一目瞭然《いちもくりようぜん》。  すでに限界を迎えている神裂の□からは断続的に血がこぼれる。体の見えない所に重大なダメージがあるのは明白だった。刃を振るう速度は巨に見えて遅くなっていき、いつかは追い着けなくなってアックアの一撃を受ける絶望的な未来が脳裏をちらついた。ついていくだけでも精一杯の相手に対し 起死回生の一撃など放てない。逆転のチャンスとは、それを実行するための切り札を温存しておいて、初めて実現するものなのだから。  全《すべ》てのカードを使わなくては対処できない神裂に、チャンスはない。  たった一枚の切り札すら出し惜しみできないのでは、巻き返しを図るのは難しい。  だが 『うるっ……せえっつってんだろ!!』  頭に浮かぶのは、この学園都市で初めて『彼』と出会った時に受けた言葉。  それを思い出し、自然と神裂の全身に力が戻る。  戻ってくれる。 『んなモン関係ねえ! テメェは力があるから、仕方なく人を守ってんのかよ!?』  インデックスという一人の少女の処遇を巡り、聖人の前にただの握り拳《こぶし》一つで立ち向かったあの少年。 『違うだろ、そうじゃねえだろ! 履《は》き違えんじゃねえぞ! 守りたいモノがあるから、力を手に入れんだろうが!』  別に、あの少年の言葉が世界で一番美しいものとは思わない。  思想など人の数だけあるものだし、その内のどれかが頂点に立つという訳でもない。  それを言ってしまえば、後方のアックアにも戦うべき理由や信念が存在するのだろう。  しかし。  聖人や『神の右席』としての莫大《ばくだい》な力を認識していながら、それをただの一般人へ容赦《ようしや》なく叩きつける『理由』なんてものが、あの少年に勝てるとは思えなかった。  ただの一般人のくせに、五和《いつわ》を守るために自らアックアの攻撃《こうげき》を受けた少年の行いが、ただ『選ばれた人間』として当たり前のように君臨する者に、負けるとは考えられなかった。  神裂火織《かんざきかおり》は、刃を振るいながら、思いきり奥歯を噛《か》み締《し》める。  あの少年が見せた『理由』を、  命懸《いのちが》けで示してくれた『信念』を  こんな才能『しかない』卑怯者《ひきょうもの》に、踏《ふ》みにじらせはしない。      4  五〇人近い|天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきょう》の面々は 治療のために巻いた包帯自体が引き千切《ちぎ》られ、その内側から赤いものを滲ませるという凄惨《せいさん》な状況も気に留めず、アックアが破壊《はかい》した第四階層の巨大な穴の縁から、第五階層で繰り広げられる聖人同士の戦いを新鮮と眺めていた。  爆音、爆風、衝撃波《しようげきは》は余披だけで凄《すさ》まじく、辺りに散らばる瓦礫《がれき》の量から考えて、一般人が巻き込まれていないのが奇跡に思えるぐらいの状況だ。  同じ人間であるにも拘《かかわ》らず、圧倒的な運動良と衝撃波によって、荒れ狂う魔力の渦すら薙ぎ払って激闘を繰り広げる怪物達。雄叫《おたけ》びが響き、金属と金属がぶつかる激突音が炸裂し、爆風が空気中の水蒸気を吹き消して飛行機雲のような残像を生む。攻撃の合間合間に複数の閃光が瞬き、その内の一つでも浴びれば現天草式など消し炭になるであろう術式が、これまた圧倒的な魔術でもって次々と迎撃されていく。  離れた所から見ると、それは銀河と銀河のぶつかり合いにも見えた。激突と共に複数の星が爆発し、空間がたわみ、暗黒に呑み込まれ、その闇すら振り払うように新たな光が生み出される。ならば仮初《かりそめ》の銀河の中心に立つあの二人は何を示すのか。  あの内の片方は、神裂火織だ。  かつて自分達を率いてくれた、そして今も陰ながら温かい眼差《まなざ》しを注いでくれる、世界で二〇人もいない本物の聖人だ。  天草式の元女教皇《プリエステス》は今、戦ってくれている。  おそらくはターゲットとして指定されてしまった一般人の少年を助けるために、そしてアックアに襲《おそ》われていた現天草式の仲間達のために。  だが。 「……、」  ガシャン、という音が聞こえた。  戦いを眺めていた血まみれの五和《いつき》の手から、|海軍用船上槍《フリウリスピア》が滑《すべ》り落ちた音だった。あのアックアに対抗するため、そして一人の少年を助けるために、ありったけの技術を注ぎ込んで補強した一本の槍《やり》。その努力の結晶が、まるで路傍《ろぼう》の石のように、ただ転がっていた。  五和だけではない。  他にも何人かが、同じように武器を落としていた。服から力を失い、壁に手をつく者もいた。そして、これもやはり同じような表情を浮かべていた。  それは、ただ圧倒的な無気力感。  自分は一体何をやっていたんだろう、と五和は思っていた。  神裂火織《かんざきかおり》が自分|達《たち》のために戦ってくれれば戦ってくれるほど、自分達の努力が否定されていく感覚があった。どこまで努力しても自分達は聖人の掌《てのひら》の上から逃れる事はできず、『彼女』は愛らしいものでも見るような目でそれらを眺め、そしていざ危険が迫れば誰にも到達できないような高みで戦いを繰り広げる。  全然、本気で見てもらえていなかった。  どこまでいっても、所詮は遊びでしかなかった。  その厳然とした事実に叩《たた》き潰《つぶ》されそうになりながら、そして同時に、神裂火織が見せた命《いのち》懸《が》けの優しさに対して、そんな事しか考えられない自分の小ささに、さらに五和達は打ちのめされる事になる。だが駄目《だめ》だった。あまりにも矮小《わいしょう》だった。とても割り込む事のできない圧倒的な戦闘《せんとう》を眺めているだけで、凄まじい無気力感が傷ついた体に残ったわずかな体力や気力を丸ごと削《そ》ぎ落としていく。  あの少年がここにいれば、そんな事に構ったりはしないだろう。  ただ目の前で神裂火織という『仲間』が戦い、傷つけられている様子を見れば、もうそれだけで拳《こぶし》を握って激闘の真ん中へ割り込んでいけただろう。  それもまた、一つの強さ。  だが、今の天草式《あまくさしき》にそれだけの強さを示す信念は、ない。  聖人と聖人の戦いは続く。  あまりにも圧倒的な力は、直接的にぶつからずとも、ただ見ているだけで人の心を挟《えぐ》り取っていく事も知らずに。 [#改ページ]   行間 三  救難信号ならとっくに聞こえていた。  しかし身動きの取れる者は一人もいなかった。別に、体に何か大きな傷があるという訳ではない。目的地まであまりにも距離があり、そして乗り物などが調達できないという訳でもない。彼らが動けないのは、単に立場や政治的な問題だった。  救難信号は英国王室専用の長距離護送用馬車から届いたものだった。  そもそも、この馬車の魔術的《まじゅつてき》な防護|網《もう》は完璧《かんぺき》であるはずだった。馬車が作られた当初から、たとえこの惑星が真っ二つに割れたとしでも救難信号が出る事などありえないと揶揄《やゆ》されるほど強固なものであるはずだった。特殊な修道服『歩く教会』どころの話ではない。魔術大国イギリスの技術と歴史の粋《すい》を集めて設計され、『移動鉄壁』という異名まで持つ王室用の馬車は、たとえどんな襲撃者《しゅうげきしや》にも止められる訳がなかった。  その馬車から、救難信号が来た。  普通なら絶対にありえない現象。  それが示す意味は簡潔だった。  何らかの政治的な『取り引き』があった。  馬車に乗っていた英国第三王女は、その捨て駒《ごま》にされたのだ。  ドーヴァー海峡を挟んだ国境沿いで、『騎士派《きしは》』の面々は、悲痛の思いで繰り返し届けられる救難信号を、ただ黙《だま》って聞いていた。  誰もが無言で歯を食いしばり・掌《てのひら》から血が滲むほど拳《こぶし》を固く握り締めていた。  彼ら『騎士派』の目的は、三派閥四文化という複雑な関係を持つイギリスという国家の分裂を防ぎ、国家をまとめるに足る王家の血を引く者を、たとえ命に代えてでも守り抜く事だ。  権謀術策《けんぼうじゅっさく》の渦中で活動する彼ら『騎士派』の男達は、その苛酷《かこく》な環境に身を置いていたからこそ、特に何の説明も受けなくても、今置かれている状況を予測する事はできた。  英国第三王女を襲撃しているのはスペイン星教派。ローマ正教の中でも極めて大きな派閥であり、エリザベス二世の時代に無敵|艦隊《かんたい》を葬《ほうむ》られて以来、スペインとイギリスの魔術勢力間には歴史的な確執が存在する。  英国王室が敢えてこの襲撃を見逃したのは、スペイン星教派との戦争を起こすきっかけが欲しかったからだろう。大航海時代に十字教を伝えた関係で、今もスペイン星教派は南米大陸の旧《カトリック》教文化勢力を、ほぼ完壁に掌握《しようあく》するだけの影響力《えいきょうりよく》を持っている。イギリス側としてはこの南米への影響力をローマ正教スペイン星教派からもぎ取り、勢力圏を拡大しょうとしているのだ。そして英国第三王女は、王室内ではそれほど強い権限を持っていなかった。大陸一つと天秤《てんびん》にかけられ、そして捨て駒《ごま》にされたという訳である。  王女を守るのが『騎士派』の務めだ。  たとえ救いを求める声がなくとも駆けつけるのは当たり前。まして救難信号が出ているのにそれを無視するなど、本来ならば絶対にありえない事だった。  しかし。  今だけは、今この瞬間《しゅんかん》だけは、『騎士派』は石になるしかなかった。  フランスでの魔術的戦闘がドーヴァー海峡を挟んでイギリスまで及んだ場合は速やかに行動するよう求められていたが、逆に言えばイギリスに火の粉がかかるまでは、絶対に動いてはならないと暗に強制されていたのだ。 「……、」  ウィリアム=オルウェルは『騎士派』が野営しているテントから、外へ出た。  真夜中のドーヴァー海峡の向こうでは、今も断続的に光が瞬いていた。灯台の光ではない。フランス国境側から漏れているのは、スペイン星教派による魔術|攻撃《こうげき》の余波だ。 「行くのか」  背後から声がかかる。  ウィリアムが振り返ると、そこには『騎士派』のトップ、騎士団長《ナイトリーダー》が立っていた。屈強なアックアとは遠い、どこか優雅な立ち振る舞いを見せる男。それは生まれ育った家柄のおかげでもあるのだろうし、何より骨に王家の血を引く者を守る責務から、王城や宮殿での作法を学ぶ必要が生じたからだろう。  ウィリアム=オルウェルは金で雇われて誰《だれ》の下でも戦う傭兵《ようヘい》だ。  一国家のために命を尽くす騎士団長《ナイトリーダー》とは、本来ならば相容《あいい》れない存在のはずだ。  しかし実際には、二人は暇さえあれば酒を酌み交わす関係にあった。騎士団長《ナイトリーダー》は何度となくウィリアムを『騎士派』に誘い、ウィリアムはそれを断りつつ、しかし世界中で戦った後は、一杯の酒を喉《のど》に通すために自然とイギリスへ帰ってくる。地位も立場も、戦い方も生き様も、何もかもが違っていたくせに、彼らは不思議なほどお互いを認め合っていた。  だからこそ、騎士団長《ナイトリーダー》は知ったのだろう。  何も告げず、ただ黙《だま》ってテントから出たウィリアムの考えを。 「貴様達には一国を守る者としてのしがらみがある。国家の後ろ盾を持つ者の行動は、その国家を代表した意思表示になってしまうのである。そうした状態ではフランスとの国境を勝手に越えてスペイン星教派へ手を出す事も難しいのであろう」  ウィリアムは巨大なメイスを肩で担ぎ直してから、静かに語った。 「だが私なら違う。私はただの傭兵《ようへい》である。国家の後ろ盾を持たぬ者が個人的に暴走したとしても、それはイギリスの思惑とは一切関係がないはずである」 「お前一人に行かせると思うか」  騎士団長《ナイトリーダー》は口元を綻《ほころ》ばせた。 「いくら歴戦の傭兵とはいえ、お前だけには任せられん。なに、お前の悪運ならば生き残る事はできるだろう。しかし王女を守る立場としては、出自も分からぬ傭兵に彼女を預ける訳にもいかないのでな。わずか一四ばかりの子供とはいえ、曲がりなりにも婚前の女性だぞ。不埒《ふらち》な輩《やから》に連れ去られては国家の危機だ」 「人の話を聞いていたのであるか?」  アックアは呆《あき》れたように言った。  彼は気づいている。騎士団長《ナイトリーダー》の並べた反論は、単なる建前でしかない事に。  そして騎士団長《ナイトリーダー》にとっても、気の利いた冗談くらいの調子でしかない。  彼ら二人は、目を合わせれば呼吸が合う。  そういう腐れ縁なのだ。 「イギリスという国家を背負う『騎士派』には手出しができないという話だろう」  騎士団長《ナイトリーダー》は簡単に言うと、胸元についていた純金の勲章のようなものを取り外した。それは彼の血統を証明する、家紋の紋章の中心に据えられる|盾の紋章《エスカッシャン》をあしらった識別章だった。騎士団長《ナイトリーダー》少しだけ寂しげに識別章を眺めていたが、やがてそれを手から離した。  地面に落ちた識別章には目を戻さず、騎士団長《ナイトリーダー》は正面からウィリアムの目を見据える。 「これで私も騎士失格だ。だから行かせてもらう。今も救難信号を出し続けているという事はまだ第三王女は生きているはずなのだからな」 「なるほど。貴様らしい選択である」  ウィリアム=オルウェルはその決意を知って、わずかに笑った。  彼もまた騎士団長《ナイトリーダー》と同様に 知っていたのだろう。今まで共に酒を酌み交わしていた相手が一体どんな人間であるかを。  知っていたからこそ、背中を預けて戦えたのだ。  騎士団長《ナイトリーダー》は海峡の向こうで瞬く光を忌々《いまいま》しそうに睨みながら ウィリアムを促す。 「急ごう。走行不能になったとはいえ、未だに馬車の防護機能は生きているだろうが『王室派』が直接工作をした以上、それもいつまで保《も》つか分かったものではない。とにかく一刻も早く駆けつけねば」 「そうであるな」  ウイリアムは率直に同意したが、次の瞬間《しゅんかん》には、騎士団長《ナイトリーダー》の腹へ深々と拳《こぶし》を突き込んでいた。ズドン!! という鈍い音に、騎士団長《ナイトリーダー》は信じられないものでも見るような目でウィリアムの顔を見る。 「お、前……何を……?」 「駄目《だめ》だ。連れてはいけない。分かっているはずであろう」  ウィリアムが拳《こぶし》を抜くと、騎士団長《ナイトリーダー》は支えを失ったように地面へ崩れ落ちた。それでも鍛えに鍛えた騎士団長《ナイトリーダー》の意識を完全に奪う事はできなかったらしい。もがく騎士団長《ナイトリーダー》を見もしないで、ウィリアムはただ告げる。 「私は傭兵《ようへい》という身軽な立場を利用し、世界各地の戦場を自由に渡る。だが、そんな私でもイギリスの王城や宮殿の中には入れない。それは貴様にしかできない事である」 「ウィ……リ、アム……」 「本当に第三王女を守りたいと思うのなら、今だけでなく、先を見ろ。このような権謀術策《けんぼうじゅつさく》が招く人災は、おそらく今後も幾度《いくど》となく第三王女を襲《おそ》うであろう。その時、側《そば》にいてやれる人間がいた方が良い。守ってやれ、騎士《きし》の長《おさ》。第三王女だけではない。そのような政治的駆け引きに腐心する『王室派』そのものを。それは傭兵の私ではなく、騎士の貴様にこそ任せられる仕事である」 「ウィリアム=オルウェエエエエエエエル!!」  倒れたまま叫ぶ騎士団長《ナイトリーダー》の言葉を振り切って、ウィリアムは戦場へ向かう。  騎士団長《ナイトリーダー》は、一つの魔法名を聞いた。  とある傭兵が掲げる魔法名《まはうめい》を。 「名乗るべき時が来た。我が名は『|その涙の理由を変える者《Flere210》』である!!」  イギリスとフランスの間にあるのはドーヴァー海峡。  しかし水中移動術式を施《はどこ》したウィリアム=オルウェルは、まるで砲弾のような速度で一気に国境を突き抜ける。 [#改ページ]   第四章 誰が誰を守り守られるか Leader_is_All_Members.      1  御坂美琴《みさかみこと》はトボトボと深夜の街を歩いていた。  湯上がりゲコ太ストラップを得るために外のお風呂《ふろ》施設を利用した美琴だったが、折悪くなんか『無酸素警報』とかいう第二二学区特有のテンジャラスイベントに遭遇《そうぐう》し、ビルの中で足止めを喰らっている内に、気がつけば時間は深夜になっているし完璧《かんぺき》に場冷めしているしお風呂に入った意味もなくなっていた。 (だーちくしよう……。結局、寮のユニットバスを使う羽目になるのか)  と思ったのだが、どういう訳か第二二学区の出入り口は封鎖《ふうさ》されていた。  現在、その『無酸素警報』については一応の決着がついたらしく、ビルからの出入り制限自体は解かれている。どうやら何らかのシステムの不具合らしく、ゲートを管理している中年のおじさんも頭を掻《か》いていた。  普通なら文句の一つも言いたい所だが、何しろおじさんの背後ではドタバタというものすごい足音や、あっちこっちで野太い怒号や叱責《しつせき》が飛び交っている。心なしか、対応したおじさんの顔色もすすけていた。今更クレームを重ねるのも不憫だ、と思った美琴は噛みつく事を諦めた。 (うーん、一体何があったのやら)  こう見えて、美琴もあの少年に負けず劣らず野次馬《やじうま》根性のトラブル体質の持ち主である。そっちの騒《さわ》ぎの方も少し気になったのだが、 「にょわっ!?」  突然、バチン!! と美琴の前髪辺りから静電気のようなものが散った。彼女にしては珍しく、軽度の能力の暴走だ。美琴はびっくりしているおじさんに愛想笑《あいそわら》いを浮かべて頭を下げると、ひとまずそこから撤退《てつたい》する。これは学園都市特有の感覚かもしれないが、自分の能力を自分で制御できないヤツというのは、これはこれで案外恥ずかしいものだ。そうしている内に、いつの間にかトラブルの現場に首を突っ込んでみる気も萎《な》えていた。  もしも彼女が魔術《まじゅつ》に精通していれば、今のが『人払い』という、人間の感覚や認識に影響《えいきょう》を及ぼす術式の効果と、自身の能力の制御法が競合を起こしたのだと勘付いたかもしれない。 (しっかし、何だったんだろさっきの?)  首を傾《かし》げつつ、とりあえずゲートの動作不良がどうにかなるまでは地上へは出られないとの事なので、美琴は第二二学区の案内板を眺め、第七階層にあるグレード高めなホテルへ足を運ぶ事にする。 (今から飛び入りでチェックインできるかしら……。つか、さりげなく寮監《りようかん》が怖いなあ。やっぱ黒子に電話して空間移動で脱出した方が良いのかも)そんなこんなで螺旋状の下り坂を降りて第七階層へ降りる。  と、その時だった。  不意に、前方の暗がりから、何者かの人影がふらっと出てきた。明らかに普通の歩き方ではない。頼《たよ》りないというよりは、不安定さが際立《きわだ》つ挙動。変質者か? と美琴は眉《まゆ》をひそめたが、人影が街灯の下に出てくると、彼女の顔は一気に驚《おどろ》きに染まった。  上条当麻だ。 「ちょ、アンタ何やってんのよ!?」  慌てて美琴は駆け寄る。  普段の彼女なら、こういう反応は見せないだろう。この少年は日常的に夜の街をうろついている事は知っているし、美琴にとっては腐れ縁のようなものだ。顔を突き合わせてケンカをする事はあっても、心配をするというのは珍しい。  だが、今の美琴は、いつもの行動パターンから外れざるを得ない状況に直面していた。  上条当麻の様子が、明らかにおかしかったからだ。  まるで氷の海に浸かっていたように青ざめた顔。体中に巻かれた包帯は無理な運動のせいか所々がずれていて、赤いものが惨んでいる箇所すらあった。着ている服もおかしい。見慣れた学生服ではなく、まるで病人用の手術衣のようなものを纏《まと》っているだけだ。 「御坂、か……?」  街灯の柱に体を預けるようにして、かろうじて体勢を保ちながら、上条は言った。強引に引き千切《ちぎ》ったのか、頬や腕には電極のついたテープらしきものがあって、コードの端《はし》が地面まで垂れている。  その日を改めて見て、美琴はギョッとした。  良く見なければ分からない程度だが……上条の右目と左目は、わずかに瞳孔《どうこう》の開き方が違う。確実に焦点が会っていない。これでは曇りガラスを通して風景を見ているようなものだろう。  上条自身の表情から、その事に気づいている様子はなさそうに見える。  あるいは、そんな瑣末事《さまつごと》など気にしていられないほど、切羽詰《せつぱつ》まっているのか。 「……、」  上条の唇が微《かす》かに動いたが、美琴の耳には開き取れなかった。  ただ彼は、ゆっくりとした動作で街灯の柱から手を放すと、再び歩き出す。そのまま美琴の横を通り抜けようとして、そこで膝《ひざ》から力が抜けた。  ガクン、と地面に崩れそうになる上条を、美挙は慌てて支える。 「馬鹿《ばか》!! アンタ、その怪我《けが》どうしたのよ!? そっちについている電極のコードとか……、まさか、どっかの病院から抜け出してきたとかって言うんじゃないでしょうね!?」 「行か、ないと……」  間近に接近したからか、ようやく上条の声が聞こえた。 「あいつら、多分、今も戦ってる。だから、俺も行かないと……」  断片的な言葉を聞いただけで、美琴《みこと》は全身が震えるのが分かった。  この少年が、今までも何度か美琴の知らない所で事件に巻き込まれているらしいのは、何となく予想がついていた。ただし、それはケンカの延長線上にあるようなものだと思っていた。過去に一度だけ 学園都市最強の超能力者《レペル5》と戦う場面を目撃《もくげき》した事もあるが、あれはまさに人生一度の出来事だと考えていた。まさかこんな、生きるか死ぬかの瀬戸際《せとぎわ》を何度も何度も行き来していただなんて、誰《だれ》に想像できただろう。  同時に、これなら考えられる、と美琴には納得できる部分があった。  彼女の脳裏に浮かぶ単語はただ一つ。 (……記憶喪失)  こんな風に、毎回毎回寿命を削って戦い続けていれば、体の方だってただでは済まないはずだ。記憶喪失の原因が精神的なショックなのか、それとも脳の構造的な問題なのかは美琴には分からない。だが、そのどちらの原因であっても『ありえる』と、思えてしまう。それぐらいに、上条当麻の体はボロボロになっていた。  止めるべきだ、と美琴は思う。  今にも死にそうな体をひきずって、頭の中の記憶を失うほどの経験をして、それでも何らかの危機に立ち向かおうとするこの少年を。 「……?」  上条は、いつまで経っても自分の腕を掴《つか》み続ける美琴を、不思議そうな目で見ていた。  何で美琴が立ち尽くしているか、全く理解していない顔。  他人に心配をかけさせるような事は全部|内緒《ないしよ》にしているから、誰かに声をかけてもらう事なんて絶対にありえないと、何も言わなくても誰かが自分のピンチを察して助けに来てくれるなんて都合の良い事は起こる訳がないと、本当にそう信じている顔。  その小さな事が、頭にきた。  心の底から。 「何で……言わないのよ」  気がつけば、美琴はポツリと呟《つぶや》いていた。  後戻りはできなくなると分かっていながら、言葉を止める事はできなかった。 「助けてほしいって、力を貸してほしいって! ううん、そんな具体的な台詞《せりふ》じゃなくて良い。もっと単純に!! 怖いとか不安だとか、そういう事を一言でも言いなさいよ!!」 「御坂《みさか》……。なに、言って……」 「知ってるわよ」  この期《ご》に及んでまだごまかそうとするように……いや、美琴《みこと》を巻き込ませないように演技を続ける上条に美琴は切り捨てるようにこう言った。 「アンタが記憶喪失《きおくそうしつ》だって事くらい、私は知ってるわよ!!」  その瞬間《しゅんかん》、上条の肩がビクンと大きく動いた。  大きな———それこそ人生を左右するほど大きな『揺らぎ』が見えた気がした。  戸惑っている上条を見て、美琴の方も衝撃《しようげき》が走る。  だがそれがどうした。  美琴はかつて一度、本当にこの少年に命を救われた事がある。彼女一人だけではない、彼女が守るべき一万人近い少女と一緒《いつしよ》に。  その時、たった一人で学園都市最強の超能力者《レベル5》に立ち向かおうとした美琴の前に、上条当麻は現れたのだ。全《すべ》てを一人で抱えて死のうとしていた美琴の心の奥深くへ、土足でズカズカと踏《ふ》み込んでくるようなやり方で。  確かにそれはデリカシーの欠片《かけら》もない、ともすればプライバシーすら侵害するような意地汚い方法だっただろう。しかし、御坂美琴という少女は、そして彼女の『妹達《シスターズ》』は そういう方法で救われたのだ。  そのやり方を、上条当麻にだけは否定させない。  この少年だって、そういう方法で救われたって良いはずだ。  だからこそ、美琴は育つ。 「アンタの中にはそれくらい大きなものがあるってのは分かる。でも、それは全部アンタが一人で抱えなくちゃいけない事なの? こんなにボロボロになって、頭の中の記憶までなくして、それでもまだ一人で戦い続けなくちゃいけない理由って何なのよ!!」  上条は、その言葉を聞いていた。  彼が黙《だま》っているのを良い事に、美琴はさらに畳みかける。 「私だって、戦える」  正面から挑むように、ただ真《ま》っ直《す》ぐに意志をぶつけるために。  今まで言えなかった事が、ただ自然と口から飛び出す。 「私だって、アンタの力になれる!!」  それは学園都市第三位の「超電磁砲《レヘル5》」があるからではない。そんな小さな次元の話ではない。 たときしの瞬間に全ての力を失ってただの無能力者《レベル0》になったとしても、それでも美琴は同じ事を言えると絶対に誓える。 「アンタ一人が傷つき続ける理由なんてとこにもないのよ! だから言いなさい。今からどこへ行くのか、誰《だれ》と戦おうとしているのか!! 今日は私が戦う。私が安心させてみせる!!」 「み、さか……」 「人がどういう気持ちでアンタを待ってるのか、そいつを一度でも味わってみなさい! 病院のベッドに寝っ転がって、安全地帯で見ている事しかできない者の気持ちを知ってみなさい!! アンタ、妹達《シスターズ》を助けた時もそうだったじゃない!! こっちには相談しろって言っておきながら、自分だけ学園都市最強の超能力者《レペル5》に一人で挑んで!! 何で自分の理論を自分にだけは当てはめないのよ。どうしてアンタ一人だけは助けを求めないのよ!?」  叫びながら、美琴は上条を見据えた。  そこにあるのは愕然《がくぜん》。  だが、それは『知らない事』を突きつけられた表情ではない。『隠していた事』が明るみに出た驚《おどろ》きだ。  一方通行《アクセラレータ》や妹達《シスターズ》についての記憶はある。  その事に美琴はホッとする反面、この局面で感情に打算が混じった己の意地汚さに嫌悪《けんお》する。本来なら上条の身を一番に心配するべきこの状況で、美琴は自分の『不安』を払拭《ふつしよく》するための行為に出てしまったのだ。  上条当麻は、気づかない。  あるいは、気づいていながら、見逃してくれたのか。 「とっ、とにかく、行くわよ、病院に! アンタ口で言っても聞かないんだから、ちゃんと病室に戻るまで見逃したりはしないわよ!!」  美琴は上条の腕を掴《つか》みながら、もう片方の手で携帯電話を操作して地図を呼び出し、病院の場所を検索していく。 「……そう、か」  上条はしばらく呆然《ぼうぜん》としていたが、やがてゆっくりと唇を動かした。  それは、笑みのようにも見えた。 「知っちまったのか、お前」  崩れ落ちそうでありながら、上条の体に妙な力が籠る。最も危険な状態だと美琴は判断した。だから彼女は上条の腕から手を離さない。 「でも、達うんだ」  さらに何かを言おうとした美琴を封じるように、上条は言った。 「俺《おれ》、記憶がないから詳しい事は分からないんだけどさ」  上条当麻の芯《しん》は、折れていない。 「以前の自分の事なんて思い出せないけど。どんな気持ちで最期《さいご》の時を迎えたのか、もうイメージもできないけど。でも、ボロボロになるとか、記憶がなくなるまで戦うとか。自分一人が傷つき続ける理由はどこにもないとかさ」  記憶喪失である事が露見した。それ自体はとてつもなく大きな出来事のはずだ。だが、上条が抱えている本当の芯《しん》は、そこではない。 「多分、そういう事を言うために、記憶がなくなるまで体を張ったんじゃないと思うんだよ」  美琴《みこと》の表情が、止まった。  その結論が、上条当麻の抱える本当の芯。  だからこそ少年は記憶をなくした事実を隠す。誰かのせいだと、動かなければこんな事にはならなかったと、そんなつまらない台詞《せりふ》を口に出して誰かを傷つけさせないために。  もはや思い出す事すらできない、一つの過去。  だが、そこでも上条は大切なものを守るために傷つく覚悟を決めて、実際にそれを一つの結果として成し遂げた。お涙|頂戴《ちようだい》の美化された自殺願望ではなく、ただやるべき行動の先にある種の終わりが待ち構えていて、それでも前へ進んだのだという、一つの結果を。 「昔の事は思い出せないけど、でも、思い出せなくても、その見えない部分のおかげで俺《おれ》はここにいる。もう覚えてもいない頃の俺が、今の俺を動かしている。残っているんだ、『頭《ここ》』じ ゃなくて『胸《ここ》』に。だから俺は、俺を思い出せなくても、俺がやろうとしていた事、俺がやるべき事ならきちんと分かる」  おそらく上条当麻は、そんな曖昧《あいまい》で、自分自身すら確証を持てない『何か』に誇りを持っている。信念があるからこそ、彼は後悔をしない。もしも過去の自分に会えるとしたら、ためらいもなく『ありがとう』と笑って言える。この少年は、絶対にそう信じている。 「悪い、御坂《みさか》。お前はもう早く帰れ」  気がつけば、美琴の手が離れていた。  異様に強い力で、上条の腕が動いていた。 「俺は行く。誰かに任せれば良いっていう訳じゃない。別にやらなきやいけないなんて強制力がある訳でもない。ただ、俺は行く。結局、変わんねえんだよ、そういうのって。もしも何かの歯車がズレて俺の記憶が失われなかったとしたって、俺のやるべき事は同じなんだ。上条当麻っていうのは、記憶のあるなしぐらいで揺らぐものじゃないんだよ」  少年は美琴に背を向けて、再び歩き出す。  追い掛けようと思えば、いくらでもできたであろう、あまりにも頼りない歩み。 (どうしよう……)  だが、美琴は動けなかった。  背中はすぐそこ。手を伸ばせば今なら届く。 (私は間違った事は言ってない。こいつは今すぐ病院に戻らなくっちゃいけない。それに、私がこいつと一緒《いつしよ》に戦場へ行くっていう選択肢だって……。でも、こいつが嘘《うそ》をついていないのも分かる。多分、今、ここで、こうして、自分の足で立つ事に、こいつは特別な意味を見出《みいだ》してる)  そうこうしている間にも上条は動く。  美琴が悩んでいる間にも、上条は動いてしまう。 (だって、そんなの、止める事なんてできない。できる訳がない。きっと、ここで見送るのが正しいんだ。両手を組んで、神様にお祈りして、無事に帰ってくる事を願うのが一番正しいのよ。それ以外のすべての選択肢は、どんなものであっても『余分』でしかない。こいつは、そんなものを、絶対に望んでなんかいない……)  頼りない背中が遠ざかる。時間はない。  止めなくてはいけないはずなのに、どうしても美琴には動けなかった。 (どうしよう。全然、納得できない)  おそらく上条当麻が言った台詞《せりふ》には何一つ偽《いつわ》りはない。彼はただ自分の本心を明かし、それでも自分がやりたいから戦おうと決意している。  理屈で言えば、その意見を尊重して見守るべきだ。  そんな事は分かっている。馬鹿《ばか》でも分からなければいけないはずだ。  だが、納得できない。  どうしてもできない。 (……そう、なんだ)  知らず知らずの内に、彼女は自分の胸に手を当てていた。  御坂《みさか》美琴という一人の少女は気づいた。  それが、論理や理性や体面や世間体や恥や外聞までもが関係ない、ただただ自分自身を中心に据え置いた一つの意見こそが、まさしく御坂美琴という人間の核なのだと。惨《みじ》めで醜《みにく》くわがままで駄々《だだ》をこね———それでいてどこまでも素直な剥《む》き出しの『人間』なのだと。  その感隋の名を、美琴は知らない。  どんなものに分類されるのかを、彼女はまだ理解していない。  しかし、今日、この日、この時、この瞬間《しゅんかん》。  御坂美琴は知る。  自分の内側には、こんなにも軽々と体裁を打ち破るほどの、莫大《ばくだい》な感情が眠っている事を。  学園都市でも七人しかい超能力者《レベル5》として、『|自分だけの現実《パーソナルリアリティ》』という形で自分の精神の制御法を熟知しているにも拘らず、それら全てを粉砕するほどの、圧倒的な感情が。  上条当麻の背中が、闇に消える。  御坂美琴は最後まで彼を止められなかった。  その理由は、上条の行動に心を打たれたからではない。  気づいてしまった感情の片鱗《へんりん》に胸を圧迫され、指一本動かせなかったからだ。      2  後方のアックアのメイスが唸《うな》る。  特別な術式や霊装《れいそう》などがある訳ではない。ただ体力。『唯閃《ゆいせん》』という特別な術式を使って一時的に力を増す神裂と、いつまでも天井知らずの全力を出し続けるアックアの間に生じた『差』が瞬く間に膨れ上がり———そしてついに限界が訪れた。  ドッ!! という轟音《ごうおん》が炸裂《さくれつ》する。  メイスを受け止めた七天七刀《しちてんしちとう》ごと、神裂|火織《かおり》の体が大きく吹き飛ばされる。 「がァあああああああああああッ!?」  瓦礫《がれき》の山を踏《ふ》み潰《つぶ》すように戦っていた神裂は、そのままノーバウンドで一〇〇メートル近く突き進んだ。彼女自身が砲弾にでもなったかのように、次々と瓦礫を吹き飛ばし、コンクリートの塊が粉々に破壊して粉塵を撒き散らす。 「もう終わりかね、極東の聖人」  アックアの声に込められたのは失望。  しかし瓦礫《がれき》に埋もれ、動きの止まった神裂《かんざき》には応じる余裕もない。  血にまみれた体に入る力は、最初の半分にも満たないか。 (……なに、か……)  小細工もトリックもない。  ただ根本的な『力』の違いを相手に、どう戦えば切り崩せるか。 (……あの力の……正体は……?)  ごぶっ、とロから血を吐きながら、神裂は疑問を感じる。 『唯閃《ゆいせん》』という形で聖人の力をフル稼働《かどう》させる神裂には、分かる。聖人という性質は、そもそも生身の人間の限界を超えているのだ。本来の『唯閃』は、一撃《いちげき》必殺の抜刀術だ。そういう形で使わなくては、自分で自分の体を破壊《はかい》してしまう事に繋《つな》がりかねないからである。  その無理を、アックアは正面から通す。  故《ゆえ》に、神裂との差が開いてしまう。 (———『唯閃』の……魔術《まじゅつ》構造に、余裕は……ない)  この術式は単に運動量を増幅させているだけではない。人間の体の限界を超えて筋肉が壊《こわ》れないように、極端《きよくたん》な速度に振り回されて重心バランスを失わないように、それこそパズルのように繊細に術式の各ピースを組み合わせた『結晶』だ。これ以上を要求し、どれか一つのパーツに手を加えようとすれば、その途端に全《すべ》てのバランスが崩れてしまう。全てのピースをはめて完成させたジグソーパズルに、さらに新しいピースを加えようとしても駄目なのだ。  ここが近接格闘戦《かくとうせん》をメインに戦う『聖人』の限界点。  アックアはこれ以上に洗練された身体制御術式を組んでいるとでも言うのか。  神裂はいくつかの仮説を立てたが、いずれも失敗した。  やはり、どこかを増幅すればどこかに無理が生じる。アックアの性能を引き出した時点で人間の肉体は空中分解してしまう。物理的にも、魔術的にも。 (アックアの……力は……)  そもそも、聖人は与えられた力を一〇〇%完全に引き出す事はできない。 『神の子』と似た身体的特徴を持って生まれた事で、恐れ多くもその力の一端を手に入れる事に成功したと言われる聖人。しかし、たとえ力の一端といえど、たかが人間ごときにその力を掌握《しようあく》する事などできないのだ。  与えられた力の一端の、そのまた一端を操るのが精一杯。  それが聖人の正体だ。  どういう風に術式を組んでも、絶対に無駄《むだ》は出てくる。有《あ》り体《てい》に言えば、せっかくの力が霧《む》散《さん》してしまうのだ。偶像|崇拝《すうはい》の理論によって体の中に入ってくる力に対して 実際に自分の意志で振るえる分というのは限られているものである。  しかしその無駄《むだ》は悪い事ではない。仮に一〇〇%完全に力を行使した場合、今度は高圧すぎる力によって聖人の肉体が粉々に吹き飛んでしまう恐れがあるからだ。それは魔術《まじゅつ》というよりも自己防衛本能に近いものかもしれない。魔術の知識を知らぬ赤子の頃《ころ》から、その力を安定させる術《すべ》だけは知っているのだから。  だが (……アックアには、『聖人』としての……限界が、ない……? ……あの力は、もう……人間が制御できる領域を……軽く、超えてしまっている……?)  まして、アックアは聖人の他《ほか》に、さらに『神の右席』としての力を上乗せしている。後方のアックアと呼ばれる所以《ゆえん》、大天使『神の力』の属性を。一見すれば 単に力が倍増したと思うだろう。だが実際には、その分だけ跳ね返ってくる負荷も倍増しなければおかしいのだ。  そう。  奇妙なのは、アックアが軽く二〇〇%以上の力を完全に掌握《しょうあく》し、なおかつ暴走を起こさず顔色一つ変えていない事である。 (……できる 訳がない。素質とか天才とか、そういう次元じゃない。聖人と、『神の右席』。その相容《あいい》れない二つの性質を、たった一つの肉体で押さえつける事など、できるはずがないんです……)  天才という言葉には、全《すべ》てを納得させてしまうだけの説得力がある。  しかし、違うのだ。  その領域にいる神裂だからこそ、分かる。  天才とは、才能とは、現実にはそんなに便利な言葉ではない。 (……何かが、ある……)  トン、という軽やかな音が聞こえた。  神裂の前に、後方のアックアが降り立った音だった。 (……聖人と、『神の右席』……)  目の前にいる強敵を睨みつけながら、神裂は思う。 (……その双方の力を共存させるための術式《トリック》が、必ずどこかに存在する……ッ!!) 「ッ!!」  アックアに一歩踏《ふ》み込まれる前に、神裂は倒れたまま真横へ転がった。  地面に落ちていた七天七刀《しちてんしちとう》を強引に掴《つか》み取る。  同時、アックアも五メートルを超すメイスを真横に振るった。瓦礫《がれき》も地面もまとめて薙《な》ぎ払うような 強引極まりない一撃《いちげき》だ。  奇襲するつもりだった神裂の刀は、防御に回さざるを得なくなる。  メイスと刀がぶつかり、ガッギィィ!! と轟音が鳴り響く。再びメイスの勢いに押される前に吹き飛ばされそうになる神裂《かんざき》だが、彼女は刀を地面に突き刺す事で威力を殺す。それでも一〇メートル以上地面を滑《すべ》ってようやく動きを止める。 「まだ戦うのであるか」  アックアは感心したように告げた。  ただしそれは、自分が目上である事を自覚した上での感心だ。 「逆転のチャンスなど、ない。自分の手持ちと、こちらの切り札の数を考慮すれば分かるはずである。努力や祈りに応じて奇跡が訪れると言うのならば、我々のような少数の『聖人』がもてはやされる事はないのだからな」 「……もてはやされる、ですか」  ポツリと、傷だらけの神裂は呟《つぶや》いた。  心の底から、吐き捨てるような声で。 「自分の力で手に入れたものではない、生まれた時から勝手についてきただけのオプション。そんなものを振りかざして あなたはそれで満足なんですか?」 「語ってどうする」  アックアは受け答えようとしない。 「前に言ったはずである。語って聞かせる信念に、どれほどの真実が含まれているのかとな」  神裂とアックアが同時に飛んだ。  正面からぶつかり合い、金属と金属が火花を散らせる。 「貴様はこう憤《いきどお》っているのであろう。圧倒的に実力の違う一般人や天草式《あまくさしき》の人間を、聖人の戦いに巻き込むなと」 「……ッ!!」 「だがこれが戦場である。生まれ持った能力の差、手にした武器の性能、戦う人員の数。そういう歴然とした違いが堂々と襲《おそ》いかかってくるのがこの場のルールである。そいつに巻き込ませるのが嫌《いや》だと言うのなら、初めから『ここ』に立とうとするな」  もはや鍔迫《つばぜ》り合いにもならない。  アックアの押す力に負け、神裂の体があっさりと退く。 「力なき者に戦わせる必要など、どこにもない」  崩れそうになる神裂に、アックアは言う。 「刃を交えるのは、真の兵隊だけであれば良いのである」  それが、信念を語らぬアックアの片鱗《へんりん》か。  他《ほか》の『神の右席』とは違い、少年の右腕のみを粉砕すると言ったこの男。  天使ではなく聖母———徹底《てってい》して『慈悲《じひ》の力』を振るう者の心の断片なのだろうか。  確かに、神裂にも似た想《おも》いはある。  あまりにも無慈悲な戦場では、鍛える鍛えない以前に、単体の戦闘力《せんとうりよく》など無意味。どれだけ準備を整えようが、死ぬ時は死ぬ。それが嫌《いや》なら、あらかじめ神裂《かんざき》という聖人があちこちに散らばるリスクを全《すべ》て排除した上で、安全な戦場で戦わせるしかない。  だが、そんな事ができる訳がない。  単純に敵と味方の戦力を考慮《こうりよ》し、伏兵の可能性を危惧《きぐ》するぐらいならできるだろう。しかし本物の戦場とは違うのだ。本当に悪夢のようなタイミングで発生する偶然を あらかじめ全て掌握《しようあく》し、それらを完璧《かんぺき》かつ未然に防ぐ事など実現できる訳がないのだ。  神裂は、それを未熟と評した。  自分の力が足りないから、絶えず変化する戦況をコントロールできず、大切な仲間達が傷ついた。『あの時』は本当にそう思っていた。当時、女教皇《プリエステス》であった神裂はそれに耐えられずに、結局天草式を抜け出してしまう事になる。  しかし、 (なんて……)  神裂|火織《かおり》は、後方のアックアに自分の姿を重ね、奥歯を噛《か》み締《し》めた。 (なんていう傲慢《ごうまん》な考え方でしょう)  天草式の魔術師《まじゅつし》が弱いから死んでしまった、全員が聖人と同じような力を持っていれば誰《だれ》も死ななかった。本当にそうか? そんな訳があるか。だったらあの少年は何だ。みんなと一緒《いつしよ》に戦い、みんなと一緒に勝利し、みんなと一緒に笑っているあの少年は何なのだ。  結局、一緒に戦うと言っておきながら、神裂火織は天草式十字凄教を信じられなかったのではないのか。人格や精神ではなく、その実力を。だからこそ、神裂は自分の背中を誰にも預ける事ができず、連携を崩し、自ら必要のない敗北を重ねていただけではないのか。  天草式十字凄教とは、そんなに弱かったのか。  本当に弱かったのは、一体どこの誰だったのか。  こんな酷《ひど》い状態で無理に勝利して、一体何が得られると言うのだ。  たとえ時代がみんなの望む方向へ進んだとして、世界がより良い方向へ動いたとして、最後の最後まで勝者の力になれなかった人間は、そこへついていく事はできるだろうか。  取り残されたと思うはずだ。  辺り一面に溢れる幸福な光の中、たった一人で取り残されたと思うはずだ。  聖人。  ただ生まれた時から得ていただけの———『選ばれた者』の特権を振りかざす愚か者同士の意志のぶつかり会いは、どこまで傲慢であれば気が済むのか。 「私は、大馬鹿者《おおばかもの》です」  神裂火織は、吐《は》き捨てた。  今まで自分が行ってきた、無自覚な暴力を目の当たりにした。  つまり、そういう事か。  後方のアックアも、『神の右席』も、神裂火織《かんざきかおり》も同じ。 『特別な誰《だれ》か』が全《すべ》てを管理し、『それ以外の全て』はただ口を開けて管理されろ。それがお前達のためであり、無駄《むだ》な努力などした所で無様な姿をさらし、限りある資源を無駄に消費し、皆に笑われるだけなのだから、もはや何もしないで黙《だま》って従え。神裂は知らず知らずの内に、自分の大切な仲間達に対して、そんな事を要求していたのか。 「———、」  神裂火織は血まみれの唇を拭《ぬぐ》い、改めて七天七刀《しちてんしちとう》を構え直す。  自分が取るべき選択は何か。 (分かってる)  本当の意味で、『仲間』達を救い出すための選択は何か。  正々堂々と『仲間』である事を認め、光の中に取り残さないための選択は何か。 (分かってる!)  絶対の敵、後方のアックアの間違いを正すために相応《ふさわ》しい選択は何か。  アックアの持つ力の謎《なぞ》を解き、その圧倒的な暴力に対抗するための選択は何か。 (分かってる!!)  一つが解ければ、後は全てが連鎖的《れんさてき》に紐解《ひもと》かれていく。七天七刀を握る両手から、ミシィ!! と音が鳴った。それは神裂火織の最後の力。正しいと信じられるからこそ、出し惜しみなく全てを出せる、信念の力。  敵は聖人にして『神の右席』としての力さえ振るう後方のアックア。  史上最悪の強敵を前に、神裂火織は最後の行動に出る。      3  二人の聖人が戦う第五階層から三〇メートルほど上方にある、クレーター状に崩れ落ちた第四階層の縁で呆然《ぼうぜん》と戦いを眺めていた現天草式の面々は、その瞬間、確かに声を聞いた。 「———、……を」  世界で二〇人もいない、本物の聖人の声を。 「……して、ください」  かつて天草式を率いていた、元|女教皇《プリエステス》の声を。 「力を貸してください、あなた達の力を!!」  神裂火織の声を。  最初、五和《いつわ》や建宮《たてみや》は、何を言われているのか分からなかった。言葉の意味を脳が処理しても、それが自分達に向けられているものとは思えなかった。  だが、確かに神裂は自分達に言葉を放っている。  あれだけ絶対に届かないと思っていた神裂火織が、所詮は生まれた時から持っているものが違うのだと思っていた神裂火織が、大切な仲間を傷つけたくないと言って貧弱な自分達に背を向けた、あの神裂火織が。  協力を求めている。  自分一人で倒せない敵を倒すための協力を。 「———あ」  震《ふる》えている自分に気づいた者は、何人いたか。  涙を流しかねない表情を浮かべている者に気づいた者は、何人いたか。  つまり神裂火織が示した言動の意味は、こういう事だったのだ。  あの女教皇様《プリエステス》が認めてくれた。  単なる重荷としての仲間ではなく、共に肩を並へる戦力という意味での仲間として。  今までそんな事は一度もなかった。  何故《なぜ》、この局面になって神裂火織は天草式十字凌教《あまくさしきじゅうじせいきょう》に助けを求めたのか。  そんなのは簡単だ。  神裂火織には、たった一人では倒せない敵がいる。  それでも彼女には、立ち向かうべき理由がある。  そして、  その無理を通すための希望が、  彼女の夢を守るための最後のピースが、  建宮《たてみや》や五和《いつわ》といった、ごくごく普通の天草式十字凄教なのだ。 「……、」  その時を、その瞬間《しゅんかん》を、どれだけの間待ち焦がれたか。  無気力感から武器を落とした者は、その武器を拾い上げた。  拒む者などいなかった。  体中に包帯を巻き、その包帯すら赤いものが滲んだり、包帯自体が破けてしまうような状態であっても、そんなものは関係なかった。  自分達が束になっても敵《かな》わず、神裂火織ですら歯が立たないほどの『怪物』の前にもう一度立てと言われても、怯える者はいなかった。それ以上に心を占めるのは嬉しさだ。女教皇《プリエステス》の力になれると、もう一度あの人と共に戦えると、ただそれだけの事実が生み出す喜びだ。  雄叫《おたけ》びをあげて戦意を奮《ふる》い立たせる者がいた。世界で最も明るい涙をこぼす者がいた。ただ静かに、誰《だれ》にも気づかれぬよう幸福を噛《か》み締《し》める者がいた。壁に寄りかかっていた者は、もう一度自分の足で立ち上がった。教皇『代理』の建宮は束《つか》の間の重い荷が下りたとばかりに、そっと息を吐いた。 「……行くぞ」  建宮斎字は、天草式十字凄教の指導者として、最後の指示を出した。  一言では足りなかったのか、彼は万感の思いを込めてもう一度、 「行くぞ! 我ら天草式十字凄教のあるべき場所へ!!」  叫び声と共に、我先にと第四階層に空いた大穴から飛び降り、戦場へと突き進む。  無力である事など百も承知。  それでも戦うべき理由は揺らがない。  だからこそ、天草式十字凄教は束になって強敵へ立ち向かう。  彼らがリーダーと認めた、たった一人の女性と共に。      4 (な、に……?)  後方のアックアは、神裂火織《かんざきかおり》の取った行動を理解できなかった。  聖人と聖人が起こす戦闘《せんとう》の真ん中へ、ただの魔術師が巻き込まれればどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。そもそも神裂は、それを嫌っていたからこそ、後方のアックアを天草式から遠ざけ、敢《あ》えて専用の戦場を用意して戦っていたはずだ。  なのに、 「おおおおおおおおおおおッ!!」  ある者は剣を携《たずさ》え走り抜け、ある者は槍を手に大きく跳ぶ。死を恐れぬ者達はあっという間に集合すると、まるで満身創痍《まんしんそうい》の神裂を守るように布陣を築き上げた。 [#改ページ]  アックアからすれば、菓子に等しい脆《もろ》き壁。  彼はメイスを構え、険しい表情で告げた。 「弱者に救いを求めるだと 。それほどまでに、命が惜しいのであるか」 「そう見えますか」  神裂火織《かんざきかおり》は血まみれの両手で七天七刀を構えながら、言った。  彼女の口元には、笑みすらあった。 「確かに、私の側《そば》にいる事で、傷つけられてしまった仲間達がいました。私はそれを恐れて、一度は天草式十字凄教から離れようとも思いました」  ただし、と神裂は力強く言葉を切り、 「その悲劇は、彼らが弱かったから起きたのではありません」 「……、」 「彼らを『弱い』と決めつけ、その実力を信じられなかった自分が。心のどこかで彼らを見下し、背中を預けられなかった自分が。そうしてすぐ近くにあるはずのカを放置し、未熟な腕にも拘《かかわ》らずたった一人で戦い続け、敵に大きな隙《すき》を見せてしまったこの自分が! この傲慢《ごうまん》が、『守ってやる』という優越感が、全《すべ》ての悲劇の元凶だったんですよ!!」  己の弱さを自覚し、なおかつ前へ進む者は成長する。  神裂火織のボロボロの体の中に、新しい力が渦を巻く。 「だから私は克服します。彼らを信じ、背中を預け、互いが互いの力を最大限に発揮する事で、私は私の天草式十字凄教を取り戻してみせます!! 我々のリーダーは我々であり、我々の仲間は我々です!! そこには『聖人』などという、たった一人の上司《トップ》など必要ありません!!」 (何だ……?)  確かに、神裂火織には今までなかった自信のようなものが取り戻されていた。  それは芯《しん》だ。  己の行動に自信を持つ者だけが精神の中心に持つ、強固なる芯だ。  だが、勝機がない事は変わらない。烏合《うごう》の衆が五〇人ほど追加されたとして、何の問題もないのだ。現天草式など わざわざ全力で戦うまでもない。神裂との激戦の最中、勝手に吹き飛ばされる背景のようなものなのだから。 (集団心理でも働いたのであるか。ありもしない錯覚《さつかく》にすがるとは) 「根拠なき希望は単なる妄想」  アックアの全身に力が溢《あふ》れる。 「そんなもので私を超えられるとでも思ったのであるか!!」  くだらないものを吹き飛ばすように振るわれたメイスの射程圏内へ、神裂火織は臆《おく》せずに突っ込む。  七天七刀とメイスが激突し、しかしその衝撃《しようげき》を殺すために複数の天草式の面々が防護術式を展開。いかに精神論を持ち出そうが、互いの実力差は変わらないはず。それなのに、ここにきて神裂《かんざき》はアックアと拮抗《きっこう》した。 「聖人とは、『神の子』と良く似た身体的特徴を持って生まれたために、偶像|崇拝《すうはい》の理論によって恐れ多くも『神の力』の一端《いったん》を借り受けた者を差します」  情報では、神裂と現天草式《あまくさしき》の間には、数年のブランクが存在するはずだ。  しかし彼女達は言葉すら交わさず、たった一息で全《すべ》ての時間を克服する。 「だが、そんな『聖人』であっても、あなたほどの力を行使する事はできません。あなたは明らかに、|ただの聖人《わたし》以上の力を有している。それは何故《なぜ》か」  その拮抗はまやかし。  即座にアックアの反撃《はんげき》が入り、神裂を含む天草式の布陣が大きく揺らぐ。  それでも天草式十字凄教は必死で戦う。 「———答えは簡単、『聖母崇拝』に決まっています!!」  そう、思えばアックアは包み隠さず、正々堂々と語っていた。  自分は聖母の属性を振るう者だと。  しかし、後方のアックアが本来|司《つかさど》るべきは大天使『神の力』のはずなのだ。慈悲《じひ》の象徴である聖母に比べ、『神の力』はゴモラという都市を丸ごと焼いたり、最後の審判で世界を壊《こわ》すために活躍《かつやく》したりと、もっと直接的な攻撃を行った神話はいくつもある。何故そういった『分かりやすい攻撃方法』を避け、遠回りするように聖母の方を選んだのか。 「あなたの身体的特徴が似ているのは『神の子』一人ではなかったのでしょう? あなたは『神の子』のほかにも、聖母とも身体的特徴が似ているために、そちらの力も同様に手に入れていたんです!!」 『神の子』と聖母は親子の関係にある。その身体的特徴が似ている事については、それほど違和感がある事実ではないだろう。  そして、聖母は『神の子』に次ぐ十字教のナンバー2、あらゆる聖人の中でも『神の子』を産むという最高の奇跡を成し遂げた存在として、やはり強大な力を持つと言われる。その聖母を讃《たた》える聖母崇拝はあまりにも多くの民衆の心を動かし、世界のルールそのものである厳正な『神の子』よりも例外的な慈悲を与えてくれる存在として、聖母に祈り聖母が叶《かな》える形の『奇跡の報告』が教会に多数寄せられ、『このままでは聖母崇拝だけで独立してしまうのではないか』と時のローマ正教上層部に危機感を与えたほどである。  聖人と聖母。  もしも、この二つの属性を同時に併せ持つ身体的特徴を有する者が存在するとしたら。  それこそが、後方のアックア。  おそらくは生まれた時から抱えていた才能を、『神の右席』でさらに開花させた完成形。  彼の体内に収まった力の量は、一体どれほどになるのか。 「あなたは二種類の異なる性質を持つ存在と、同時に重なるような身体的特徴をもって生まれてきました。だからこそ、『ただの』聖人である私の資質だけでは力負けしてしまったんです」  そもそも『神の右席』とは人間を超え、『神上《かみじょう》』を目指す者を差していたはず。つまり彼らの目指す所は、最初から『ただの聖人』どころではないのだ。  神裂《かんざき》自身は『ただの聖人』であるため、その領域を想像するのは難しいが、おそらく聖人や天使が取り扱う『ある種の力』とは、『一定以上のラインを突破すると安定する』性質を持つのだ。飛行機は速度が遅い方が扱いやすいが、遅すぎては失速して墜落《ついらく》する。アックアがやっているのは、敢《あ》えて飛行機を高速で飛ばして機体を安定させるようなものだ。  聖人から、さらに長い空白を経た高みにある、  高速安定ライン。  アックアは聖人と聖母、二つの性質を重ねる事で、通常の『速度を落として安定させようとする』聖人とは異なる高速安定ラインの中を生きているのだ。だからこそ、本来なら不安定になって暴走するはずの力を強引にまとめる事に成功したに違いない。  しかし、 「その反面、あなたには『弱点』があります」  神裂|火織《かおり》はそう言った。  そう、のんびりと飛行する機体よりも、音速の何倍もの速度で飛行する機体の方が、操縦がデリケートで難しいのは明白なのだから。 「あなたは私以上に、いえ全世界のどの聖人よりも、対聖人専用の術式に弱い側面も抱えてしまっているはずです!」  そこで神裂は言葉を切った。  話す相手を変えるために。  アックアではなく、仲間の天草式《あまくさしき》に向けるために。  つまりは、 「———『聖人崩し』です!!」 「ッ」 「あらゆる攻撃《こうげき》をメイスでいなし、あるいは避けたアックアが、唯一魔術的な手段を用いて本格的な『防御』行動に出たあの術式[#「唯一魔術的な手段を用いて本格的な『防御』行動に出たあの術式」に傍点]。そこに勝機はあります!!」  普通の人間には、聖人の力を完璧《かんぺき》に操るのは難しい。まして『神の右席』と聖人の同時使用などできるはずがない。それは実際に聖人である神裂だからこそ分かる情報だった。  神裂は当初、その二つの力を完璧に制御する特別な術式が存在するものと考えていた。  それは結局見つからなかったが、当然と言えば当然だ。  そんなものなどなかったのだ。 「元々試した事もない『聖人崩し』を、さらに他に例のない存在であるアックアが喰らえばどうなるか。アックア自身も想像がつかなかったんですよ!!」  アックアが『聖人崩し』を全力で防いだのは、何も自分の力のストックの何割かが、ほんの数十秒間使用できなくなるからではない。 「『聖人崩し』とは『神の子』に似た身体的特徴のバランスを強引に崩し、体内で力を暴走させる事によって聖人を一時的に行動不能に陥《おちい》らせるためのもの。本来なら数十秒|黙《だま》らせるのが限界ですが、聖人と聖母の表裏持つアックアが喰らえば、待っている結未は単純明快———アックア自身が起爆するのみです!!」  彼の扱う術式は、聖人以上に繊細《せんさい》な『生まれつきの体質』に依存するものだ。  言い換えれば、人工的な手段で補強できるようなものではないのだ。  神業《かみわざ》のようなバランスが少しでも崩れてしまえば、その瞬間《しゅんかん》に全《すべ》てが暴発するかもしれない。それは時速一〇〇〇キロオーバーを叩き出すドラッグマシンと同じ。莫大《ばくだい》な力を扱うからこそ、取り扱いには細心の任意を払う必要がある。だからこそ後方のアックアは『全力』で防御行動に出たのだ。 「———、」  その答えを看破されたアックアは、一言も告げなかった。  ただし その表情に変化があった。  笑み。  これまでの、見下すようなものではない。完璧《かんぺき》と称された彼にある、一点の穴。それを突きつけられてなお、アックアという人間は壮絶な笑みを浮かべていた。  弱点程度では焦らない。  戦いとはそんなものではない。  さらに苛烈《かれつ》な攻撃《こうげき》を連続して繰り出すアックアに対し、神裂《かんざき》は七天七刀《しちてんしちとう》でその攻撃をかろうじて受け止めながら、ほんの少しだけ息を吐き、それから刀の角度を微調節し、攻撃の余波となる衝撃波《しようげきは》を意面的に生み出した。  それはアックアに向かわず、彼の背後にある物を破壊《はかい》した。  瓦礫《がれき》の山に埋もれていた背景の一つ、錆びついた有刺鉄線を。 (……なるほど、そう来るか……ッ!?)  アックアが頭上を仰ぎ見た時、千切《ちぎ》れて空を飛んだ鋭い針金が、ちょうど円の形になった所 だった。さらに神裂のワイヤー、七閃《ななせん》が周囲一面を改めて切断する。瓦礫の山から次々と魔術《まじゅつ》的な意味が抽出され、彫刻のように出現する。  現れたのは巨大な十字架であり 鋭い鉄杭《てつくい》のような釘であり、そしてイバラの冠《かんむり》だった。  すなわち、 「『神の子』の処刑の象徴であるか!!」  聖人としてその力の一端《いつたん》を振るっている者にとっては その弱点をも継承している事になる。  とはいえ、こんなガラクタで聖人を倒せるのならば誰《だれ》も苦労はしない。  実際、神裂《かんざき》のような『ただの聖人』には、それほどの効果はない。  だが  後方のアックアとは、『特別な聖人』なのだ。  世界で二〇人といない聖人よりも、さらに稀少な身体的特徴を持つ者。聖人と聖母の力の一《いつ》端《たん》を同時に振るう者。莫大《ばくだい》な力を得た代わりに極めて繊細《せんさい》なバランス制御を求められる存在になってしまったからこそ、神裂|火織《かおり》がその場限りで形成した『処刑』の象徴は効果を表す。『処刑』の術式は、聖母とは関係ないと思われがちだが、この場合は違う。  聖母は十字教史上最高の聖人としても扱われているのだから。 「———ッ!!」  物理を超えたアックアの中心で、何かが泡立つのを神裂は知覚した。 『ただの聖人』であっても分かるほど明白な変化。  つまり、後方のアックアは 「揺らいでいます」  神裂はきっぱりと、自信を持ってそう告げた。  アックアという存在の中心核に重なるように存在する、聖人と聖母の力。 それらが外からの圧迫を受けて互いに競合を引き起こし、ギシギシと嫌《いや》な悲鳴を上げている。  今ならできる。  だからこそ、神裂火織は腹の底から力を込めて叫ぶ。 「準備は整いました! |槍を持つ者《ロンギヌス》よ、今こそ『処刑』の儀の最後の鍵を!!」 「ッ!!」 『聖人崩し』のカギを握る五和《いつわ》は、神裂の言葉を汲み取り、即座におしぼりを取り出し、それで柄《つか》を包むように|海軍用船上槍《フリウリスピア》を構えた。 「……面白い」  しかしそれ以上に早く、アックアが動いた。 「天草式十字凄教《あまくさきじゅうじせいきょう》であるか。その名は我が胸に刻むに値するものとする!!」  言葉と共に、アックアが一気に二〇メートル近く———いや、第四階層と第五階層を繋《つな》ぐクレーターを突き抜け、二倍以上も跳び上がる。途中で何十本、何首本というワイヤーが夜空を舞ったが、それでもアックアの動きを止める事はできなかった。  円形のクレーターの奥から街の光が漏れるため、まるで巨大な月のように見えた。  その人工的な月を背に、アックアがメイスを構える。 「聖母《T》の《H》慈《 M》悲は《 I》厳罰《M》|を和《 S S》ら|げる《P》」  以前、あの一撃《いちげき》は小惑星の激突にも似た破壊力《はかいりよく》で神裂火織を襲《おそ》った。万全の神裂すら叩《たた》き伏せるほどの威力。その上、今回は単純に二倍の滑空距離《かっくうきょり》。今の天草ら《あまくさしき》では太刀打《たちう》ちできる訳がない。この第五階層ごとまとめて叩《たた》き漬《つぶ》される。 「|時に、神に直訴するこの力。慈悲に包まれ天へと昇れ!!《TCTCDBPTTROGBWIMAATH》」  莫大《ばくだい》な速度で、一直線に落下するアックア。月明かりを浴びたメイスが青白い尾を引いていた。 (まずい!?)  あらかじめ配置された無数のワイヤーが防護の陣を築き、神裂《かんざき》自身が魔力を通し、その鉄槌《てつつい》を防ごうとする。だが足りない。アックアの一撃《いちげき》は、それらを容赦《ようしや》なく食い破って地面へ近づいてくる。  じかにそれを受けた神裂だからこそ分かる。あれをもう一発受ければ、今度こそ命はない。神裂はおろか周辺にいる天草式の全員が殲滅《せんめつ》されてしまう。 (頼みの綱は———ッ!!)  歯噛《はが》みする神裂の横で、五和《いつわ》が頭上に槍《やり》を構えた。『聖人崩し』。しかし術式の下準備がまだ終わっていない。このままでは間に合わない。 (諦めて……)  神裂火織は、七天七刀へ手を伸ばす。  破壊の塊と化して落下するアックア。それを見上げ、睨みつけながら、彼女は瓦礫だらけの広場を強く踏みしめる。一息に刀を鞘《さや》から抜くと、それを水平に構えた。  反撃のための挙動ではない。  全《すべ》ては防御。古今東西あらゆる記号を寄せ集め、即席で術式を組み、神裂火織は盾となる。 (諦めて、たまるか!!)  後方のアックアが、全力をもって地面へ落ちる。  光が吹き荒れた。  神裂火織の目が、耳が、鼻が、舌が、肌が、全ての感覚が消えてなくなった。      5  破壊《はかい》。  そのたった二文字の単語すら、理解できなかった。  五感が死んでいる。あるのは白。瓦礫の吹き飛ぶ音も、吹きすさぶ衝撃波《しようげきは》も、舞い上がる粉塵《ふんじん》も、鉄臭《てつくさ》い匂《にお》いも、何かの潰れる感触も、何もかもが脳まで入ってこない。本物の破壊とは、純粋な消滅とは、これほどまでに『何もない』のか。 (……、っ)  真っ白に塗り潰《つぶ》された五感が戻るのに、しばらく時間が必要だった。  そして神裂《かんぎき》は知る。  少しずつだが、五感は戻りつつあるのだという事実に。  失われたのではなく、回復しつつあるという事は……。 (な、にが……?)  後方のアックアが放った一撃《いちげき》は、まさに絶対の破壊力《はかいりよく》を秘めていたはずだ。神裂を含む、天《あま》草式全員の命を残さず奪い尽くしでもお釣りが返ってきたはずだ。それが まるでアックアの術式そのものが消えてなくなったかのように、神裂は無傷。被害らしい被害が全くない。 (消えて、なくなる[#「消えて、なくなる」に傍点]……? 術式が、魔術が、消える[#「術式が、魔術が、消える」に傍点]?)  ハッと神裂は顔を上げた。  善悪強弱問わず、魔術というもの全てを問答無用で打ち消す行為。  そんな馬鹿《ばか》げた事ができる人間を、彼女はたった一人だけ知っている。 「ま、さか……」  五感が戻る。  自分の放った言葉が自分の耳に入り、それをきっかけにするように、全ての感覚が息を吹き返した。悪夢のようなアックアの一撃があったにも拘《かかわ》らず、正真正銘、『何も起きていない』これまで通りの風景。そして、その中心点に立っているのは、  上条当麻。  アックアの魔術攻撃を正面から押さえつけ、握り潰すような勢いでメイスを掴《つか》む少年がいた。  あるいは、後方のアックアがただの腕力でメイスを振るっていれば、血まみれの上条など右手ごと粉々になっていただろう。しかし今回はあくまでも魔術攻撃だ。そして少年の右手は、どんなものであれ異能の力を丸ごと吹き飛ばす性能を秘めている。  アックアの攻撃が絶大な『魔術』攻撃であればこそ。  少年の右手は、容赦《ようしや》なくその一撃を無効化させる!! 「な……ッ!!」 「———、……」  驚愕《きょうがく》するアックアに、血まみれの上条は何かを呟《つぶや》いた。それは誰《だれ》の耳にも届かない。そうしながら、上条はまるでメイスにもたれかかるように倒れ込んだ。力が尽きたのではない。アックアの動きを封じようとしているのだ。 「ッ!!」  それを見た神裂も動いた。  上条《かみじょう》一人では、メイスを振るっただけで払われてしまうだろう。だがアックアが驚《おどろ》いた一《いつ》 瞬《しゅん》を突いて、神裂《かんざき》は七天七刀《しちてんしちとう》を放り捨て、まるで丸太でも掴《つか》むような体勢で 巨大なメイスごとアックアの肩を封じにかかる。 「貴様ら!!」  アックアが何かを叫んだが、二人は聞いていなかった。  満身創痍《まんしんそうい》の上条と神裂は、同じ所を見ていた。  すなわち、天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきよう》の五和《いつわ》へと。  ただの魔術師である五和へと。 「任せておいてください……」  五和がおしぼりで柄《つか》を包むように握った槍《やり》を構え直すと、他《ほか》の天草式の面々も特殊な術式の起動準備に入った。 「———必ず当てます!!」  咆哮《ほうこう》と共に、五和が爆走した。  複数の術式の保護を受けた少女の小柄な体が、一気に加速しアックアヘ突き進む。  アックアはこれを回避《かいひ》しようとした。  しかし聖人としての腕力は同じ聖人の神裂が封じ込め、それを振り払うために『神の右席』として発効する聖母の特殊な術式は上条の右手がまとめて消し飛ばす。 「お、」  身動きの取れない時間は、わずか数秒。  しかしそれだけあれば問題ない。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」  その瞬間、アックアが放ったのは雄叫びだった。  それは恐怖によるものではない。  次の一撃《いちげき》を避《さ》けられぬと分かり、なお己の内の信念を揺るがせず、むしろ突撃してくる五和に対して、大きく前へ一歩踏《ふ》み込もうと力を加えるための、戦意ある雄叫びだ。 『聖人崩し』。  五和の槍が分解され、一本の雷撃へと形を変える。物質的な束縛《そくばく》を超えた術式が、この場を制する一撃と化してアックアへと襲《おそ》いかかる。  トバン!! という空気の震《ふる》える音が炸裂《さくれつ》した。  雷光はアックアの腹に突き刺さり、背中から飛び出し、今度こそ彼の全身をくまなく蝕《むしば》む。  直撃の衝撃に押され、上条と神裂は思わず手を離していた。  アックアの背中から、火花とも違う光の十字架が上下左右へ爆発的に伸びた。しかしその十字架の中心点、交差するポイントを貫くように、衝撃を受けたアックアの体が大きく飛ぶ。 『聖人崩し』を受けたアックアの体はコンクリートのタイルの上を数十メートルも転がり、その手から巨大なメイスが離《はな》れ、吹き飛ばされたアックアはそのまま第五階層に用意された人工の湖へと突っ込んだ。砲弾のように水中を進んだ彼の体が完全に見えなくなった所で、さらなる変化が起きる。  魔力の暴走。  後方のアックア自身の起爆。  聖人と聖母の属性が『聖人崩し』を喰らうと同時に反応、競合を引き起こし、その体内で本来の『聖人崩し』ならばありえない急激な連鎖《れんさ》爆発を引き起こす。  カッ!! と深夜の暗い湖が真昼のような閃光《せんこう》に包まれた。上条達の視界が真っ白に塗り潰《つぶ》される。大量の水が丸ごと蒸発する不気味な音が耳についた。  神裂|火織《かおり》が再び目を開けた時、アックアは存在しなかった。  ただ、人工の湖に張られた水が全《すべ》て蒸発していた。湖の縁はまとめて吹き飛ばされている。人工の湖と全く同じ太さの水蒸気の柱が、真《ま》っ値《す》ぐ上に伸びていた。その巨大な柱は地下市街の天井《てんじょう》部分にぶつかり、そこから四方八方へと広がっていく。まるで一〇〇〇年の歳月を超える巨木のように圧倒的なその光景は、端的《たんてき》にアックアの起爆の凄《すさ》まじさを示していた。 [#改ページ]   行間 四  今から一〇年ほど前の、寂れた港にて。  ウィリアム=オルウェルは殴《なぐ》られた頬《ほお》を軽くさすっていた。  殴ったのは騎士団長《ナイトリーダー》。  ムスッとしている二人の間でオロオロしているのは、世間では無能の烙印《らくいん》を押されている英国第三王女だ。もっとも、だからこそこうして城を抜け出しても問題にならないのだろうが。 「今のは私を騙《だま》して美味《おい》しい所を一人占めした分だ」  ボッキボキと指の関節を鳴らしつつ、騎士団長《ナイトリーダー》は社交界では決して見せないような表情でウィリアムへ近づく。 「まだだぞ。まだ私は、お前がイギリスから出ていく分については殴っていない。だから確認を取っておこう。間違いがあってはいけないからな。よし質問だ。お前は本当にイギリスを離れるつもりなのか」 「ああ。出ていく」  ウィリアムが返した途端《とたん》に、騎士団長《ナイトリーダー》はもう一度ウィリアムの顔面を思い切り殴り飛ばした。ゴン!! と鈍い音が炸裂《さくれつ》し、第三王女が小さな悲鳴をあげて両手で自分の顔を覆《おお》った。  むしろ殴られた本人であるウィリアムの方が何ともない顔で、 「……貴様、酔っているのであるか?」 「だとしたら、酒瓶でお前殴っている」  騎士団長《ナイトリーダー》は肩にかけた革のザックを下ろすと、中をごそごそと漁りつつ、 「スコッチの良いのがあるぞ。カラメルなど一滴も使っていない、純粋に樽《たる》の色だけが染み込んだ一級品だ。ああ、中身が満杯なのは目を瞑《つぶ》ろう。今日は門出の日だからな。これくらいは重量サービスしてぶん殴っても良いだろう」 「先ほどから何を怒っているのだ、貴様は」  ウィリアムが尋ねると、騎士団長《ナイトリーダー》はわずかに動きを止めた。  やがて、彼は言う。 「お前は傭兵《ようへい》の器では終わらない男だ」 「買い被りという言葉知っているのであるか?いいや知らないであろう」 「私が方々に手を回して、ようやくお前を一人前の『騎士』として迎え入れようというのに……そいつをあっさり蹴りやがって。お前はどこぞの偉大な芸術家にでもなるつもりか。死後何百年も経ってからようやく認められるような人生を選ぶなど、どうかしているとしか思えない」 「芸術については分からんよ。そいつを作る者の生き様もな」 「……何を目指す気だ? 誘《さそ》いを蹴《け》るには、それなりの理由があるだろう」 「別に、特別な事をしようという訳ではない」  ウィリアム=オルウェルはそっけない調子で答えた。 「前にも言ったであろう。騎士《きし》と傭兵《ようへい》の違いである。この国の騎士には絶大な権限があるが、それだけでは解決できない問題もある。傭兵にしても同じ。我らは身軽である反面、どうしても『信用』のいる場所へ踏《ふ》み込む事は難しいのである」 「……お前」 「どちらかが欠けでも駄目《だめ》なのである。貴様も今回の騒動《そうどう》で分かったであろう。一組織が肥大するだけではまとまらない事がある。だからそれを外から監視する者が必要になってくる。その監視者だけが特別になってもいけない。社会を形成する歯車に大小はあっても、皆が互いに干渉し、回っているという事実を忘れてはいけないのである」  ウィリアムの言葉は確かなもので、彼の人格を知るからこそ、騎士団長《ナイトリーダー》は撫然《ぶぜん》とした顔で黙《だま》り込んだ。そんな旧友の顔を見て、ウイリアムは微《かす》かに笑う。 「何故《なぜ》、『王室派』が強硬策を使ってでも勢力圏を増やそうとしたのか、その裏も気になる。イギリスは『王室派』『騎士派』『清教派』の三派閥で成立している事は知っているのであるな。 『王室派』は『清教派』からの影響を受けやすい。何かあったと考えた方が良さそうである」  その言葉に、騎士団長《ナイトリーダー》は清教派のトップを思い浮かべたようだ。  最大主教《アークビジョップ》、ローラ=スチュアート。  三派閥の一角を収める頂点という形では、騎士団長《ナイトリーダー》と最大主教《アークビジョップ》は同列の立場にある。だが、それをこの騎士は快く思わないだろう。それぐらい不気味な存在だった。  さらにウィリアムは言う。 「問題は英国内部だけではない。ローマ正教やロシア成教、そして学園都市の動きも不穏《ふおん》の一言である。世界が動こうとしている。そういう時こそ『組織』は暴走するものである」 「『騎士派』の一員として、イギリス国内で盤石《ばんじゃく》を固める選択肢もあると思うが」 「それだけで全《すべ》てを解決できるとは思えん。今回の件が良い見本であろう。私は外から守る事にする。だから貴様は内から守る事にしろ。そうすれば選択の幅が広がるはずである。仮に我々のどちらかが暴走しても、止められる可能性も増えるのだ」 「これ以上議論するのは無駄か」  騎士団長《ナイトリーダー》は寂しそうな調子で言うと、それを払拭《ふっしよく》するように、ザックの中に入っていたスコッチの酒瓶をウィリアムに押し付けた。 「餞別だ。チェンバレンのじいさんが今年の自信作だと言っていたぐらいだからな」 「……一人で飲むにはもったいないレベルであるな」 「なら、旅先で良い仲間を見つける事だ。その一杯が似合うほどのな」  騎士団長《ナイトリーダー》の気障《きざ》ったらしい言い回しに、ウィリアムは呆《あき》れたように息を吐《は》いた。どこまで行 っても騎士《きし》と傭兵《ようへい》。これで今まで良く話が合ったものだと、本当に思う。 「そうだ。ロンドン郊外の職人に、|盾の紋章《エスカッシャン》の注文を出していたはずである。あれは廃棄《はいき》しておいてくれ。物として残っていると、一緒《いつしよ》に未練まで残りそうであるからな」  それが、傭兵の別れの言葉だった。  特別な儀式《ぎしき》や作法などない。騎士団長《ナイトリーダー》が領土を持つ貴族の顔を見せたのなら、ウィリアムは根なし草としての傭兵の流儀で応える。  一人の傭兵が去った後、駄士団長《ナイトリーダー》はポツリと言った。 「……捨てるものか」  第三王女は騎士団長《ナイトリーダー》の顔を見たが、彼は自分の声が漏れていると気づいていないらしい。 「……捨てられるものか、ちくしよう」 [#改ページ]   終 章 さらなる騒乱への案内人 True_Target_is......  上条当麻《かみじょうとうま》は病院のベッドで目を覚ました。  もはや見慣れたいつもの病室だ。第二二学区ではなく カエル顔の医者がいる第七学区の方に移されたらしい。事件性のある患者だからなのか、毎回毎回他の患者のいない個室へわさわざ運ばれる辺り、もしかすると結構な厄介者《やっかいもの》なのではないか、と実は上条、ちょっとビクビクしていたりもする。 「わっわっ、気づかれましたか?」  そう言ったのは、見舞い客用に用意されたパイプ椅子に座っている五和《いつわ》だ。上条は起き上がろうとしたが、体が思うように動かなかった。単に傷が深い、というのとは違う。何だか異様な疲労感があって、全く力が入らない。疲れの芯《しん》のようなものが、全身をくまなく貫いているような感覚がある。上条が慣れない感覚に戸惑っていると、五和の方はホッと肩の力を抜いてこう言った。 「う、動けないのも無理はないんですよ。絶対安静の中、病院を抜け出して戦場へ舞い戻った挙げ句 あのアックアに奇襲《きしゅう》を仕掛けちゃったんですから」  五和から、後方のアックアをとりあえず退けた事、民間・天草式《あまくさしき》の両方に死者は出ていない事などを聞いた上条だが、全くもって実感がない。  というか、実の所、病院を抜け出して云々《うんぬん》という辺りはほとんど記憶が抜け落ちていた。何だか途中で美琴《みこと》と出会ったような気もするのたが、あれは一体どこまでが夢だったのか。とはいえ、根本的に記憶|喪失《そうしつ》である事を隠している上条としては、そういう『記憶がないんです』とか『所々抜け落ちているんです』的な相談はあんまりしないので、とりあえず曖昧に笑ってみる。 「……しっかし、その、スゲェな。アックアって『神の右席』で聖人でもあるんだろ。そいつを倒しちまうって……なんつーか、歴史的瞬間に立ち会っちゃったんじゃないのか、これ?」 「いっ、一番の立役者が何を言っているんですか!? というか、世界で二〇人といない聖人を打ち破る事自体が奇跡的であって、その上、味方の損害がゼロなんていうのはもうサンタクロースが転んでプレゼントを空からばら撒いちゃうような大盤振る舞いであって……ッ!!」  何だか五和が顔を真っ赤にして意外に大きな胸の前で両手をわたわたし始めたのだが、ようはアックアに勝利した天草式スゲーという事でオーケーなんだろうか、と魔術《まじゅつ》業界について何にも知らない上条は超アバウトに状況を判断する。  ……ちなみに実の所、後方のアックアにトドメを刺したのは五和がカギを握る『聖人崩し』なのだが、五和《いつわ》も五和でその事実に全く自覚がないようだ。天然バカとマジメ謙虚《けんきょ》人間はどちらが罪か。いずれにしてもアックアからすれば報《むく》われないの一言に尽きるだろうが。 「だー……つか、今日何日だ? ま、まさか出席日数とか大丈夫《だいじょうぶ》だろうな!? ヤバい、なんかこの辺はしっかり確認しとかないとまずい気がする!! 何故《なぜ》ならここん所ずっと事件が起きている気がするから!!」 「あっ、だ、ダメですよ起き上がっちゃ!!」  ベッドから身を起こそうとする上条《かみじょう》と、その肩を両手で掴んで押し留《とど》めようとする五和。結果、二人の顔が急接近する。その距離わずか五センチ弱。ぶっちゃけ目の前には驚《おどろ》いて顔を赤くした五和の顔がいっぱいに広がっている。上条は顔と顔の間にある空気が柔らかい壁になったような感覚を得たが、それでも何故か距離を離《はな》す、という選択肢が頭に浮かばない。  そこで、 「……………………………………………………………とうまがもういつも通りなんだよ」  低い声に促されるようにそちらを見れば、病室の出入り口近辺で呆然と立ち尽くす少女つまりインデックス。しかもご丁寧《ていねい》にも彼女の心情を表すかのように 足元の床には割れた花瓶《かびん》のおまけつき。サスペンス準備完了いつでも事件ですと言わんばかりの神が与えたもうたナイスタイミングに対して上条は、 「ひっ、ひぃーっ!? 待ってクダサイヨインデックスサン!! 言葉がなくても分かる! 今のアナタサマはどことなくわたくし上条さんの存在や人間性を諦めかけてはいませんか!?」 「……さっきまでそこに座っていたのは私なのに、ちょっと目を離した途端《とたん》にもうこれなんだよ……。そもそも、黙《だま》って病院を抜け出した事のごめんなさいもまだなのに……」 「そうそう、そうです! それについては私も賛成です! あんなボロボロの状態でアックアの元へ帰ってくるなんて正気の沙汰じゃありませんよ! 本当にもしもの事があったらどうするつもりだったんですか!?」 「アックア!? アックアってあの『神の右席』の!? そんな思いっきり魔術的《まじゅつてき》強敵相手にこの禁書目録を頼らないって、とうまそれどういう事!!」 「あれーっ!? いつの間にか体良《ていよ》く五和のポジションが変わってますがーっ!? これが天草式《あまくさしき》環境適応能力かーっ!?」  と、そんなやり取りが行われている病室の手前。直線的な廊下に立ち尽くしている女性が一人。神裂火織《かんざきかおり》である。彼女も彼女で見舞いに来たのだが、何だかタイミングを外されてしまい(五和に先を越されたとも言う)、どうして良いのか分からなくなっている訳だ。 「(……どうしましょう。明日にはロンドンへ戻らなくてはいけないのでスケジュール的には今しかないのですが、しかしまさにこの瞬間《しゅんかん》、五和や『あの子』がいるようですし……)」 「ねーちーん……。そうこうしている内に日が暮れちゃうぜーい?」  唐突に真後ろから聞こえた声に、神裂《かんざき》の肩がビクゥ!! と大きく動く。振り返ると、そこにいるのは金髪サングラスの少年、土御門元春《つちみかどもとはる》だ。  土御門は口元に軽く手を当てて含み笑いをしながら、 「せっかく教務の中で日本にやってくる機会に恵まれたんだから、ここらで今までインデックスや天草式が世話になったお礼を言わなくっちゃいけないよにゃー」 「そっ、そんな事は分かっています。しかし、その、なんと言うのでしょう。一対一でも気恥ずかしいというのに、今は五和《いつわ》に『あの子』までいるので、ええと、もう少しだけ待っていただけるとありがたいというか……」 「で、堕天使《だてんし》メイドセットは持って来たんだろうな?」 「ぶふげば!? も、もも持ってくる訳がないでしょう!! 七天七刀《しちてんしちとう》以上に税関が厳しいです!! そもそも、その馬鹿《ばか》げた計画を実行に移すならより一層、一対一に決まっています!! 間に五和や『あの子』が挟まるなど絶対にありえません!! 『あの子』の完全記憶《きおく》能力がどれほどのものか分かっているでしょう!?」  想像するに恐ろしい情景を思い描いたのか、高速で首を横に振る神裂。しかし土御門は訳知り願で鷹揚《おうよう》に頷《うなず》くと、 「そんな生真面目《きまじめ》で恥ずかしがり屋のねーちんのために……じゃーん!! 今日はより進化した堕天使エロメイドセットを持って来たにゃーっ!!」 「一体どこがどう変わったと言うんですか!?」 「え、何言ってんの? ほらこの胸の開き具合とスカート部分の透け具合がですね———」  唐突に何らかの布地を広げかけた土御門の手を、神裂は渾身《こんしん》の力で押さえつける。聖人の握力で掌《てのひら》を潰《つぶ》されそうになりながら、土御門はそれでもやや引き攣《つ》った笑みを崩さず、 「じゃーどーすんの? ぶっちゃけどうするつもりなのねーちん。まさかテメェ、ここまで引っ張っておいてフツーににっこり微笑《ほほえ》んでちょっとほっぺた赤くして小首を傾《かし》げて感謝していますで終わりとかじゃねーだろうな。気づけよ馬鹿ねーちん! そんなんじゃもう収まりがつかない所まで話は進んでんだ!! 焦らしに焦らして肩透かしなんて許されると思うなよーっ!!」  ビッカァ!! とサングラス越しに両目から閃光《せんこう》を放つ土御門に、神裂|火織《かおり》は普段《ふだん》の冷静さをすっかり失ってしまう。  やや後ろへたじろぎつつ、神裂は尋ねた。 「ならどうしろと言うんですか!! たとえどれだけ借りを膨《ふく》らませようが、私にできる事と言ったら誠心誠意———」 「挟んで擦《こす》るくらいの事はできんのかキサマはぁ!!」 「??? 挟むって、何をです?」 「こんのっ、お高くとまりやがって……ッ! ハイ質問ハイ質問!! ねーちんのそれは何のためについているのですか? その哺乳類《ほにゅうるい》のアカシすなわちおっぱいは何のためについているんですかって聞いてんだよォォォ!!」 「す、少なくとも 挟んで擦るために使うものではありませんけど……」  土御門《つちみかど》の言いたい事を頭の中でイメージできないのか、不可解な表情になる神裂《かんざき》。  意外にノッてこない彼女に土御門は軽く舌打ちして、 「でもねーちん。本当の所、そんなスローペースで良いのかにゃー?」 「な、何の事ですか」 「(……あの奥手少女、五和《いつわ》ちゃんなら堕天使エロメイドくらいやりかねんと言っておるのだ よ)」 「(……!!!??? そ、そんな事がある訳が……ッ!!)」  土御門に合わせて、意味もなく内緒話《ないしょばなし》トーンになる神裂。  彼はにゃーにゃーと含み笑いを漏らしながら、 「何故《なぜ》言い切れる? 確かに五和は奥手であるが故《ゆえ》に大胆な行動には出ないと思われがちだが、実はおしぼり作戦が空回りしているだけであって、よくよく考えてみると行動力自体は結構あるもの。そして空回りを続ける五和が自らに足りないもの、すなわち堕天使エロメイドという歯車とガッチリ噛《か》み合ったその瞬間《しゅんかん》、そこに生まれる攻撃力《こうげきりょく》は一体どれほどになるであろうか」 「そ、そんなまさか! ウチの子に限って!!」 「つか、ぶっちやけ五和のサイズなら挟んで擦るぐらい問題ないですよ?」 「??? その、ですから挟むとは?」  またもやキョトンとしてしまう神裂に、珍しく自分のペースに巻き込めない土御門はちょっと頭を抱えた。これは別方向から攻めるべきか、と方針を変更する。 「ねーちんは結局あれだ。自分の恥ずかしさばかりが先立って、カミやんに対する感謝の気持ちとかはもう全くゼロって事なんだにやー?」 「ちっ、ちがっ、違いますよ!! あなたの譬《たと》え話が堕天使エロメイドとか突飛すぎるだけです!! 私は普通に感謝して!!」 「五和は多分気にしないよ? それはカミやんへの感謝の気持ちの方が強いから。正直な話、あの子は堕天使メイドぐらいなら普通にやるはず。それが堕天便エロメイドにパワーアップしようとな。この違いが何であるか分かるかにゃー?」 「な、何ですか。違いというのは……」 「つまりねーちんは五和に負けているんだにゃー。女の器のレベルで」 「ッ!?」 「っだー。ホントに大丈夫《だいじょうぶ》かよ今の天草式は。ったくこの女はプライドだけが高くて身を削るって言葉を全然分かっちゃいねえ。こんなんで迷える子羊を導けんの? ねーちんってさ、いざとなったら自分だけ可愛《かわい》く思えてみんなを見放すんじゃねーのかにゃー」 「そっ、そんな……堕天使《だてんし》エロメイド如《ごと》きでそこまで言われる筋合いは……」  自分は絶対に正しいはずなのだが、何だかさも当然という顔で突き放すように言われてしまうと色々揺らいでしまう神裂《かんざき》。  元々上条に負い目があることも重なったせいか、あっという間に神裂の頭がパンク状態になる。 (い、いや、これは土御門の策略に違いないはず! 本当は堕天使エロメイド如きで女の器が決定する事などありえないはず!! え、ええと、論点はそこではないような……? 問題は女の器ではなく、あの方への感謝の示し方であって……。しかし堕天使エロメイドはないと言いつつ、私は具体的に反論できるだけのビジョンを頭に思い浮かべられるのでしょうか……。ハッ!! よ、弱気になってはいけません!! これは土御門の罠《わな》!! いや、しかし、ううん、ええと……冷静に。とにかく一度冷静になって考え直すのです!!) 「ん? あ、あれ。ねーちん?」  内面世界で空回りする神裂に、やや引き気味に質問する土御門。  その言葉が全く聞こえていないのか、神裂は顔からあらゆる感情を消したフラットな表情を作ると、病院の廊下で静かに正座し、華道の作法のような緩やかな動きで、どこからともなく取り出した二〇枚近い屋根|瓦《がわら》を積み上げていくと 「ぬううううううううううううううううううん!!」  真上から握り拳《こぶし》を叩《たた》きつけ、瓦どころか床にまでグーをめり込ませる神裂。  ガラガラと崩れていく音を聞きながら、神裂は極めてクールな調子で土御門に言った。 「大丈夫《だいじょうぶ》。私はちゃんと考えています」  一方、何だか妙にスワッた目つきの女教皇を見た土御門は 内心ちょっと焦《あせ》っていた。  ヤバい、面白半分に追い詰め過ぎたかも?  ちょっとダラダラと冷や汗を流し始める土御門に、神裂はゆらりと手を伸ばす。手刀のように五本指を真《ま》っ直《す》ぐ揃《そろ》え 掌《てのひら》を上に、そのまま土御門の首をスッパリ切断できそうな感じで。  神裂は言う。 「土御門」 「は、はい?」 「覚悟が決まりました。例の物を」  およそ一〇分後。  ゲラゲラ笑う土御門の顔面に拳を叩き込み、女性としての引き出しを増やし、また一段とレベルアップした天草式《あまくさしき》女教皇《プリエステス》・神裂|火織《かおり》が一つの病室へ突撃していく。  その後、世界にどういう混乱が巻き起こったかは女教皇《プリエステス》の名誉を守るために割愛する。  ただ言えるのは、上条当麻はミーシャ=クロイツェフとも風斬氷華《かざきりひょうか》とも違う、第三の天使の影に今後しばらく怯《おび》え続けるという事だけだ。  イギリス清教から連絡があった。  戦略交渉人と呼ばれる者は、いくつかの資料と、降参するためのプランをいくつか提示してきた。最も望む結末を自分で選べと、言外に語っていた。ローマ教皇はそれらを半分も聞く前に、連絡を断ち切っていた。 「くそ!!」  憤《いきどお》る。アックアが敗《やぶ》れた事には二つの意味がある。一つは、それだけ重大な戦力を失ってしまった事。そしてもう一つは、敵側にそれ以上の戦力が存在するという事。 (そもそも、一体何をどうすればアックアが敗れるのだ) 上条《かみじょう》当麻《とうま》 稀有《けう》な力の持ち王とはいえ、それだけでアックアがやられるとは思えない。しかしあの少年を守るために 多くの人間が自然と集《つど》った。単純な友人や仲間による、彼らの勢力が。 「……、」  ローマ教皇は、静かに思う。  確かに、あの少年は強敵だ。  真剣な表情で考え込むローマ教皇の耳に、一つの足音が聞こえてきた。 「いかんなあ。アックアが倒れたって? 連中もそこそこ成長してきたって訳か。まあ、だからこそ叩くための大義名分が仕上がる訳なんだが。ハッ、偉大なるローマ正教が収める世界に混乱生じる場合は、いかなる者であろうとその元凶を速《すみ》やかに排除すべし、って所か」  バチカン、聖ピエトロ大聖堂に響く足音。  その主を見て、ローマ教皇は苦渋の表情を浮かへる。 「右方のフィアンマ……。ま、さか、『奥』から出てきたのか……」 「これはこれは険しい顔を浮かべている」  ローマ教皇に声を放ったのは、一人の青年だ。  フィアンマはローマ教皇の顔を見て、がっかりしたような顔になった。 「指導者の資質は窮地《きゅうち》にこそ露《あらわ》になるって言うのに。いかんな、そういう反応は。まるで教皇としての器に合わんように見えてしまう」 「どうする……つもりだ?」  ローマ教皇は慎重に尋ねた。  前方のヴェントは療養中、左方のテッラは死亡、後方のアックアは生死不明。ならば、現状で『神の右席』の、そしてローマ正教の決定権を一手に握っているのは、このフィアンマだ。  それ以前に このフィアンマは『神の右席』の中でも不気味な存在だった。あれだけ我の強い『神の右席』の連中も、最終的な行動の決定権はフィアンマに委《ゆだ》ねていた気がする。 「ヴェントを使った学園都市への奇襲も、テッラが出した世界的な集団操作も、そしてアックアの圧倒的な才能も ……ことごとくが失敗に終わった。これ以上の手があるのか? 科学サイドの総本山、学園都市の動きを封じるだけの、圧倒的な策が」  ローマ教皇の声色は暗い。確かにローマ教皇は科学サイドの台頭を容認できず、『神の右席』に指示を仰いだ。だからと言って、自分自身ならともかく、罪なき信徒まで巻き込んでまで、このまま籠城《ろうじょう》するような真《ま》似《ね》はしたくない。  が、そんなローマ教皇の思惑とは裏腹に、フィアンマは軽い調子でこう言った。 「まずはイギリスを討つ」  なに? と訝《いぶか》しむローマ教皇をほとんど無視するように、フィアンマは続けて言う。 「これが分からんかな。現状、我々はロシア成教を取り込んだ事によって、イギリス以外のヨーロッパ全域をほぼ完壁《かんペき》に掌握《しょうあく》している。諸国家へ連絡を入れ、イギリスを干上がらせるんだよ。人員、物資、金銭、それら全《すべ》ての流れを断つ。基本的には島国だからな。逃げ場をなくしたヤツらは数ヶ月で力を失ってしまうって寸法さ」 「意味が、理解できないのだが」  ローマ教皇はフィアンマの言葉をもう一度理解しようとして、そして諦《あきら》めた。  素直に質問する。 「確かに学園都市とイギリス清教の間にはパイプがある。しかしイギリスを攻め落とした所で、それが学園都市へ致命的なダメージを与えるとは思えん。仮にイギリス全体を巨大な人質にしても、学園都市は平気な顔で戦争を続行するに違いない。『彼らを助けるのだ』とでも言えばロ実になるだろうしな」  逆に、学園都市を先に攻め落としてしまえば、イギリスの動きは止まる。イギリス清教は旧教《カトリック》の三大宗派の一つだが、それは『三大の一つ』という意味でもある。ローマ正教、ロシア成教という『三大の二つ』とそのまま戦争を起こすとは思えない。  イギリス側が強気になっているのは、学園都市———科学サイドが丸ごと味方についているからであって、学園都市さえ無力化してしまえば、イギリスは無傷で目を覚ますはずだ。 「違うなあ。そいつは達うんだよローマ教皇さん」  しかし、フィアンマは簡単に遮《さえぎ》った。 「学園都市なんて、こっちは眼中にないんだよ」  今度こそ、ローマ教皇の呼吸が止まった。  右方のフィアンマの言っている事が、部分的ではなく、単語の一つまでも理解できなくなった。  そんなローマ教皇に、フィアンマはあっさりと続ける。 「イギリスには『あれ』があるんだよ。どうしても必要な『あれ』がな。とはいえ、連中が素直に『あれ』を差し出すとは思えんし。だから騒《さわ》ぎを起こす必要があったって訳だ。『あれ』を手に入れるために、ローマ正教としての大きな力に動いてもらわなくてはならなくてな」 「何を、言っている……?」 「んん? 質問には答えているつもりだがな。それに、あながちお前の願いから外れた行動って訳でもないよ。『あれ』さえ手に入ってしまえば、学園都市だろうが科学サイドだろうがまとめて粉砕できるだろうしさ」 「何だ……?」  ローマ教皇は理解できないまま、ただ質問する。 「『あれ』とは、何だ」 「ああ」  右方のフィアンマは簡単に口を開いた。  そこから出てきた言葉は———、  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。  ガタン、という音が聞こえた。  よろめいたローマ教皇の背が、聖ピエトロ大聖堂の太い柱にぶつかった音だ。 「馬《ば》、鹿《か》な……」  かろうじて、絞り出すようにローマ教皇は告げる。 「貴様、本当に十字教徒なのか……?」  フィアンマはあっさり返す。 「さあて。どっちだと思う?」 「くそ!!」 「いかんな。仮にもローマ教皇ともあろう御方《おかた》が、そういう口を利くのはとてもいかんよ」  嘲弄するようなフィアンマの言葉を、ローマ教皇は無視した。  それどころではなかった。  前方のヴェント、左方のテッラ、後方のアックア。各人が異質な思想や流儀に則って動いていたが、彼らはまだ『神の右席』という十字教の一集団だった。天使以上の力を手に入れ、『神上《かみじょう》』となって直接的に人を救う。その考え方は傲慢《ごうまん》かつ冒涜的《ぼうとくてき》である一方、人として理解できなくもない部分もあった。  だが違う。  この右方のフィアンマだけは決定的に違う。  フィアンマは『ローマ正教・ロシア成教』の力を使ってイギリスを孤立させろと言った。しかし、それをイギリス側が黙《だま》って見ているとは思えない。本気で枯渇すると分かれば、死に物狂いで戦おうとするだろう。このままではヨーロッパ全土が戦場と化す。学園都市へ潜り込んで、要人の一人二人を襲《おそ》ってくるのとは次元が遠う———正真正銘《しょうしんしょうめい》の戦争が起きてしまう。 「き、さま……。この私が黙って見過ごすとは思っていないだろうな」  やらせる訳にはいかない。  始めてはいけない争いを始めてしまった……その自覚はあるが、今ならまだ止められる。 「ヤル気かな」  ローマ教皇の顔を見て、フィアンマは緩やかに首を横に振った。 「『神の右席』を束ねるこの俺様《おれさま》に?」 「見くびるなよ。沈みかけた泥舟《どろぶね》の長《おさ》が」 「言ってくれるな。確かに希少な『質』の持ち主とはいえ、たかが三人。『前方』『左方』『後方』の地位など、再び誰《だれ》かをあてがってしまえばそれで済む。この俺様が生き続ける限りはさ」 「させると思うか」  ローマ教皇の声が低くなる。 「右方のフィアンマ。貴様にはしばらく黙っていてもらおう。あるいは、永遠にな」  ドン!! という爆音が炸裂《さくれつ》した。特に何かが出現した訳ではない。ただ何も変化のないままに、周辺の空間そのものがミシミシと奇妙な音を立てて揺らいでいく。まるで巨大な箱の内側から、その箱が潰《つぶ》されていくのを眺めるような情景だ。 「一から一二の使徒へ告ぐ。数に収まらぬ王に仰ぐ。満たされるべきは力、我はその意味を正しく知る者、その力をもって敵が倒れる事をただ願う」  複数の光が舞う。それらは単なる光の玉に過ぎないはずなのに、不思議と逆さにした十字架や帆立貝《ほたてがい》など、全く異なるイメージをそれぞれ内包していた。  意味持つ光はフィアンマを取り囲み、それぞれが平面を築く。まるでサッカーボールのような牢獄《ろうごく》の中央に、彼の体が閉じ込められる。  口笛が聞こえた。  完全包囲されたはずのフィアンマのロから漏れたものだった。 「『神の子』と一二使徒の象徴ね。良いのか。仮にも教皇様が裏切り者のユダの印まで借りて」 「勘違いするなよ。確かにユダは主を裏切ったが、そのユダをも使徒として招いたのが主の慈悲《じひ》だ。汝《なんじ》、隣人《りんじん》を愛せよ。都合の悪いものを葬《ほうむ》るのは簡単だ。しかしその安易を求めないのが教えの本意のはずなのだ」  バォ!! と爆音が炸裂する。  フィアンマを取り囲む一三角形が、それぞれ束縛《そくばく》の陣を形成した。それは物理的にフィアンマを縛るものではない。彼の肉体と精神を切り離し、その肉体の中で永劫に空回りさせるための、『傷つけぬ束縛《そくばく》』である。 「ユダは裏切りの後、強い自戒に駆られて首を吊《つ》ったそうだ。彼の世界は暗く寒く深く苦しく、どこを見回しても一|縷《る》の希望すら見えなかったのであろう。覚えておくが良い、これから貴様が味わうものの正体だ」  すでに聞こえねだろうが、ローマ教皇はそれでも口を動かす。 「これより貴様を四〇年ほど空転させる。ユダの陥った『己自身に対する孤独』を長く味わい、その未熟な精神を今一度|研磨《けんま》し直すが良い」  一三角形の中で、棒立ち状態のフィアンマの唇が、わずかに震《ふる》えた。  指一本動かせぬ中での、精一杯の抵抗か。 「やめておけ。曲がりなりにも私は教皇。今ここで振るう力とは二〇〇〇年の時を経て、二〇億もの信徒を支え導く神聖なもの。一人二人の傲慢《ごうまん》で振り切れるようなものではない」  それに加えて、この聖ピエトロ大聖堂は旧教《カトリック》勢力圏の中でも最大最高の要塞。さらにはバチカン市国そのものが、ローマ教皇を何重にも補強する巨大|霊装《れいそう》として機能する。 「ふん」  そこで、今度こそフィアンマの口が動いた。  ローマ教皇の顔に驚《おどろ》きが出る。それは束縛された者の動きではなかった。  自然な調子でフィアンマは言う。 「残念だが……たった二〇億人、たかが二〇〇〇年ではな」  その瞬間《しゅんかん》全《すべ》てが消失した。  ローマ教皇の瞳《ひとみ》には、フィアンマの右肩の辺りが爆発的に光を放つのをかろうじて捉えるのが限界だった。次の瞬間には全ての視界が真っ白に塗り潰《つぶ》され、そして破壊《はかい》の嵐《あらし》が巻き起こる。  ドーム状の爆風が炸裂した。  聖ピエトロ大聖堂の三分の一が内側から粉々に吹き飛ばされた。  莫大《ばくだい》な施設を支える魔術的《まじゅつてき》な仕掛けが次々と切断され、このバチカンを守っているその他の施設が次々と連鎖《れんさ》崩壊を起こしていき、本来は領土を保護するためにあるはずの防護陣が大きく崩れ、行き場を失った魔力がそこかしこで吹き荒れ、景色をぐにゃりと捻《ね》じ曲げる。  ローマ教皇の体は一〇〇メートル以上吹き飛ばされ、広場の石畳《いしだたみ》を転がっていた。  彼は、砂煙をあげて崩れていく聖ピエトロ大聖堂を、呆然《ぼうぜん》とした顔で眺めていた。世界最大の要塞が、十字教で最も巨大な聖堂が、まるで紙細工のように引き裂かれていく。そのあまりの惨状《さんじょう》は、ローマ教皇から傷の痛みすらも忘れさせた。  全ての破壊の中心に、右方のフィアンマは君臨する。  彼はゆっくりと広場へ歩いてくる。  その右肩の辺りに、奇妙なものがあった。  本来あるべき腕とは別に、出来損ないの翼《つばさ》のような、不格好な五本指を備えた巨人の腕のような、歪《いびつ》な光の塊《かたまり》が。ギリシア神話では主神ゼウスの割れた額の傷口から女神アテナが生まれたとされるが、それと同等のあまりにもンュールな光景だ。 「つまらんな。これだけで空中分解したのか」  フィアンマは己の右腕と、肩から生えた何かを交互に眺めエンジンの調子の悪い車に乗ったように舌打ちする。  ローマ教皇は砕けた石畳《いしだたみ》に体を預けたまま、呻《うめ》くように呟《つぶや》いた。 「それは、腕……まさか、その力は……」 「そう。右腕というのは奇跡の象徴だ」  ゆっくりと瓦礫《がれき》の中を歩きながら、フィアンマは言った。 「『神の子』は右手をかざすだけで病人を癒し、死者を蘇らせた。十字を切るのは右手であり、洗礼の聖水を振りかけるのも右手で行われる。そして『|神の如き者《ミカエル》。こいつの右手には史上最強の武器が備わっていた。多くの堕天使《だてんし》を葬《ほうむ》り、かの『|光を掲げる者《ルシフェル》』すら斬り伏せるほどの圧倒的な力がさ」  右方。  |燃える赤《フィアンマ》を象徴する男は、ただただ講釈を親ける。  ローマ正教で最も偉いはずの、教皇に対して。 「ぐっ……」 「だが、当然ながらそんなに莫大《ばくだい》な力を持つ『聖なる右』ってなあ、まともな人間にゃ扱いきれんのだよ。一般信徒が十字を切ったり聖水を携《たずさ》えたりというのは まあ、あれだ。神話の人物が振るう力の片鱗《へんりん》のようなものに過ぎないってのは分かるだろ? たとえ聖人だろうが『神の右席』だろうが、所詮ベースとなってる肉体はただの人間だ。分かるかい、ローマ教皇さん。俺様《おれさま》はただの人間なんだよ、因った事に」  フィアンマは退屈そうな調子で告げる。  人間離れした力を軽々と振るうこの男は、それでも自分をただの人間と呼び、蔑んだ。 「つまり、だ。この俺様は素晴らしい『右腕で振るうべき奇跡』の結晶そのものを握っているが、そいつを溜め込み操り発揮するだけの出力|端子《たんし》がない。そんな状態で振るう力なんて、ちっぽけだっただろう? わざわざハイビジョンカメラで撮影した映像を、モノクロのテレヒで見るようなものだ」  歪《いびつ》で巨大で禍々《まがまが》しい腕が、フィアンマの背後で揺らめく。  彼は細い指先を軽く舐めながら、言う。 「なあ、おい。欲しいとは思わないか?」  人の作り上げた聖堂など、ただ組み立てただけの神秘など、造作もないとばかりに聖ピエトロ大聖堂を破壊《はかい》し尽くした、右方のフィアンマ。 「あらゆる奇跡の象徴たる『聖なる右』。とんな邪法だろうが悪法だろうが、間答無用で叩き潰《つぶ》し、悪魔《あくま》の王を地獄の底へ縛《しば》り付け、一〇〇〇年の安息を保障した右方の力。そいつを完璧《かんぺき》に引き出せる『右腕』があるとしたら、その内部構造を知りたいとは思わないのか?」 (ま、さか……)  報告書でなら、読んだ事がある。  学園都市にいるという一人の少年が持っている、正体不明の異能の力。  あらゆる神秘も魔術も打ち消すとされる、その右腕。 「俺様《おれさま》なら、扱える」  フィアンマはニタニタと笑いながら、右手を水平に掲げた。  呼応するように、己の力によって空中分解した第三の腕も動く。 「この『|神の如き者《ミカエル》』なら、完璧《かんぺき》に扱ってみせる。そのための下準備が必要なのだよ」  無論、『材料』だけが揃《そろ》っても、術式は制御できない。圧倒的な力を押さえつけるのに必要なのは、やはり人の領域を超えた圧倒的な知識。そして、ローマ教皇は『知識の宝庫』を知っていた。世界中の魔道書《まどうしょ》をかき集めた、ある一つの知識の結晶を。  ローマ教皇の表情から、何を考えているのかを知ったのだろう。  フィアンマはさらに笑みを広げる。 「禁書目録。イギリスの連中も愉快なものを用意してくれたもんだ」  だからこそ  こいつはイギリスに用がある。  学園都市に一時滞在している本人ではなく、敢えてイギリスの方へ。 「やら、せるか」  ポツリと、ローマ教皇は呟《つぶや》いた。  血まみれの体を引きずって、ローマ教皇は立ち上がった。彼は『神の右席』に指示を仰げば、 その一員となって『神上《かみじょう》』を目指せば、より多くの信徒を救えると思っていた。ローマ教皇は自分の地位や立場を押し上げるために、そんなものを目指していたのではない。罪のない子羊が踏《ふ》み台にされるような世の中を作るために、ローマ教皇になったのではない。  だからこそ、ローマ教皇は立ち塞《ふさ》がる。  彼の背後には、二〇億人の未来がある。 「楽しいな」  巨大な腕を水平に掲げたまま、フィアンマは笑った。 「圧倒的な勝負というのは、馬鹿馬鹿《バカバカ》しくてもやっぱり楽しい」  ゴバッ!! という爆発音が炸裂《さくれつ》した。  二人は交差すらしなかった。  ただ圧倒的な力が貫き、ローマ教皇の体が吹き飛ばされた。  聖ピエトロ広場が粉微塵《こなみじん》に破壊《はかい》された。爆発の余波が複数の建物を突き崩し、ただでさえダメージを負っていた大聖堂がさらに倒壊《とうかい》していく。バチカン市国を囲む外壁の一部が壊《こわ》れていた。ローマ教皇はそちらに薙《な》ぎ払われたのだ。  その騒《さわ》ぎで、『こんな所で危機的状況に陥る訳がない』と信じ切っていたバチカンの衛兵達がもたもたと駆けつけできた。彼らはフィアンマの事を、はじめポカンと眺めていた。まさか生身の人間がこれだけの破壊を巻き起こせるとは思っていなかったのだろう。ようやく我に返って職務を全うしようとした数名が、グチャクチャに潰《つぶ》れて宙を舞った。それで『支配者』は確定した。 「ふん?」  と、フィアンマは徹底的《てっていてき》に破壊されたバチカンの外壁の向こうを見た。  おかしい。被害が少ない。  本来なら先ほどの一撃《いちげき》の余波で、外壁の向こうに広がるローマ市街も、教百メートルにわたって瓦礫《がれき》の山になっているはずだった。しかし実際には、破壊はバチカン内部だけで 外に広がる市街地には及んでいない。 「全部自分一人で受け止めた、か。大した野郎だ」  フィアンマは鼻歌を歌い、ほとんど崩れた聖ピエトロ大聖堂へ向かう。  下っ端の衛兵はおろか、大司教や枢機卿といった重鎮までもが、一言も発する事ができなかった。  血まみれのローマ教皇は、家庭の外壁に寄りかかるように倒れていた。  フィアンマは、爆発を隠そうともしなかった。おかげで周辺では爆弾テロだ何だと大騒ぎになっている。  救急車のサイレンがどこかで鳴っていた。  どこかで被害が出たのかと思ったが、どうやら自分を運ぶための救急車が近づいてきているらしい。  辺りを見回しても、家屋が倒壊している様子はない。  砕け散った外壁の破片がいくつかの窓を割ってしまったが、死者は出ていないようだ。  その事にローマ教皇がわずかに微笑んだ時、ふと家屋と家屋の隙間《すきま》にある小さな路地から薄汚《うすよご》れた身なりの少女がこちらを見ているのに気づいた。  ここは危ない。  そう言おうとしたが、まともな言葉は出なかった。  意識が飛ばないようにするためか、少女はローマ教皇に何かを叫んでいる。彼女の手には包帯も消毒液もない。だが、必要以上の科学を求めないローマ教皇には、こちらの方がむしろありがたかった。何よりも、莫大《ばくだい》な悪意に触れた直後には、この小さな善意が身に染みた。 「はん。ご立派な事だね」  声が聞こえた。  ローマ教皇が顔を上げると、黄色い服に身を包んだ女が立っていた。  前方のヴェント。 「迷える子羊を放って名誉の負傷、傍《かたわ》らには御身《おんみ》を心配してくれる小さな思い、か。それでも人に選ばれる事はお嫌いなの? 選挙で決まったローマ教皇さん」 「……、イギリスだ」  息も絶え絶えに、何とかローマ教皇は口を開いた。  ほとんど血の塊《かたまり》を吐《は》き出すように、彼は言う。 「フィアンマの狙《ねら》いは、イギリスにある……」 「この私に、命令形はない」  ヴェントは舌を出して、簡単に切り捨てた。 「だが、クソ野郎を殺すために合致するなら見逃してやっても良いってトコか」  その時、ヴェントの言葉がわずかに止まった。  薄汚《うすよご》れた身なりの少女が、挑むようにヴェントを睨んでいたからだ。 「良い悪意」  彼女はうっすらと笑う。 「そして運も良い。本来の『武器』が手元にあったら、あなたはここで死んでいた」  救急車のサイレンが近づいてくる。  ヴェントはそれ以上何も言わず、家屋と家屋の隙間《すきま》にある路地へと姿を消した。それこそ、薄汚れた身なりの少女よりも、見知った顔で。  ロンドン、リトルヴェニス。  イギリス清教を束ねる最高権力者、最大主教《アークビショップ》のローラ=スチュアートはボートの上に寝転がっていた。ボートが浮かんでいるのは複数の水門で管理された人工の川だ。ヴェニスという名前からも分かる通り 多少はヴェネツィアを意識しているようだが……何をどう間違ったのか 美しい景観を持つものの全くもってヴェネツィアらしくない。そもそも海上都市でも何でもない、三本の川が集まる船着場なのだ。  なお、裏の意味として海の上に人工的に形作られたヴェネツィアの地形を魔術的《まじゅつてき》な観点から再現・解明するための場所でもあるのだが、その正体を知る者は極めて少ない。 「せめて手漕《てこ》ぎのボートぐらい浮かびておればよきものを……」  ローラはつまらなさそうに、ボートの後ろをチラリと見た。一応船頭らしき男はいるのだが、ボートには小型のエンジンがくっついている。 「報告です」  その船頭が仕事の話を持ってきた。  せっかく聖ジョージ大聖堂カら抜け出しているというのに雰囲気《ふんいき》ぶち壊《こわ》しな船頭に、ローラは口を尖《とが》らせつつも先を促す。 「ローマ正教内で内部抗争があった模様。ローマ教皇が巻き込まれたようですが、生死は不明。一応病院へ搬送《はんそう》された事は確認できましたが、予断を許さない状況との事です」 「……、」  船頭はローマ市内での目撃情報や魔力の流れなどから得た予測的な情報を交えて、『内部抗争』の詳細を話していく。 「バチカン内で観測された莫大《ばくだい》な魔力量から判断するに、本来の被害は数倍から数十倍に膨れ上がるという事ですが……計算にもう少し時間をください。どこかで間違っているのかもしれません」 「ふん、何も出なしわよ。ローマ教皇の背後は一般市街なりけるのでしょう。なれば結果は火を見るより明らかね」  ごろんと寝返りを打って、船頭からは表情が見えなくなるローラ。  そうしながら、彼女は一言だけポツリと呟《つぶや》いた。 「……善人め」  その言葉に、どれだけの意味が、想《おも》いが込められているのか。船頭には判別つかなかった。ローラ=スチュアートは見た目通りの年齢ではなく、積み重ねた経験の量も質もそこらの人間とはケタが違う。だからこそ、船頭にはローラの考えている事が分からなかった。 「……されど、貴様は笑うていたのであろうよ。この善人め」  ただし、あくまでも凡人の船頭から見た感想では。  ローラ=スチュアートの声色は、どこか寂しそうに思えた。  学園都市の一角には、窓のないビルがある。 核兵器でも破壊できないほどの強度を誇る建物は、たった一人の『人間』のために用意されたものだ。  学園都市統括理事長・アレイスター。  巨大なガラス容器の中で逆さまに浮かぶ『人間』の口元には、笑みがある。  彼が見ているのは 空中に直接表示された四角い画面だ。  情報元は『滞空回線《アンダーライン》』。  学測都市中にばら撒かれた極小機械が織り成す、特殊なみットワークだ。  いつもはあらゆる情報を映し出す画面には、しかし灰色のノイズしかない。後方のアックア撃破《げきは》後に起きた大爆発によって、『滞空回線《アンダーライン》』の情報網が一時的に寸断されてしまったのだ。極めて特異なテクノロジーによって作られた『滞空回線《アンダーライン》しだが、その母体はわずか七〇ナノメートルしかない。爆風や衝撃波《しょうげきは》によって損壊《そんかい》してしまう事もある訳だ。  一エリアで発生したノイズはネットワークのあちこちに飛び火し、全体に大きな負荷をかけている。完全復旧までおよそ数時間。アレイスターにとっては片腕をもがれたような状況だが、しかし彼の口元には笑みしかない。 「やはり、この問題点はどうにかせねばならんな……」 むしろ嬉しそうだった。やるべき事が明らかになったとばかりに。  アレイスターを取り囲む機械群は、『滞空回線《アンダーライン》』の機能停止直前に得た情報を多角的に分析し、ノイズまみれの断片を明確かつ有効な情報へと統合処理していく。灰色の画面に鮮明な色がつき、それらはすぐさま重要なレポートとなって出力される。  レポートの内容は、とある少年の右腕に備わっている力について。  様々な化学式が躍《おど》り、吸入する酸素と排出される二酸化炭素の量から脳の作動状況を逆算し、学園都市に蔓延《まんえん》するAIM拡散力場の相殺《そうさい》具合のデータから、右手の力の質と量が導き出される。  徹頭徹尾《てっとうてつび》科学のみで構成された世界。  それらのモニタの片隅にある文字を目で追って、アレイスターの笑みはさらに深くなる。  大人にも子供にも、男性にも女性にも、聖人にも罪人にも見える『人間』の前には、こんな報告が並んでいた。  ———非論理的現象を否定するための基準点 (Point Central 0)、安定レベル3を維持。  ———中心点でアイドリングを続けるコアの規定回転数を確認。  ———検体名称『幻想殺し《イマジンブレイカー》』、プラン影響率九八%。  ———学園都市第一位と並び、メインプラン王軸としての力は計画通り稼働中《かどうちゅう》。 [#改ページ]   あとがき  一冊ずつついてきていただいている貴方はお久しぶり。  一七巻一気読みという偉業を成し遂げた貴方は初めまして。  鎌池和馬です。  このあとがきも、もうそろそろ二〇回に届くのですね。いい加減に少しは慣れれば良いものを、本文ともども拙《つたな》い感じなのがとてもアレですが。  今回のテーマは『選ばれたもの』オカルトキーワードは『聖人』です。アックアの術式には聖母|崇拝《すうはい》などを組み込んでいますが、やっぱり土台となるのは聖人と聖人のぶつかり合いになっています。  五和《いつわ》(というか天草式《あまくさしき》全員)が放った『聖人崩し』ですが、九巻を読み返していただければ分かる通り、これも結構な大技です。この隠し玉を放った時点で、魔術《まじゅつ》サイドにおける天草式の組織的バランスは崩れてしまったものとお考えください(故《ゆえ》に、聖人の神裂《かんざき》がトップに返り咲かないと大変な事になる、という女教皇復帰を願う建宮達《たてみやたち》の策士っぷりも発揮されている訳ですが)。  この巻でもちょこちょことシリーズ全体の核に関《かか》わる情報が出てきますね。この辺りで一度、提示された情報をまとめてみるのも面白《おもしろ》いかもしれません。どの時点でどの情報が提示されたのか、そしてその情報が覆《くつがえ》されたのはいつなのか。調べてみると、今後シリーズ内で起こるであろう流れのようなものの片鱗《へんりん》を掴《つか》めるかも?  担当の三木《みき》さんとイラストの灰村《はいむら》さんには感謝を。意外に面倒なバトル描写が多かったかなと反省しているのですが、お付き合いいただきありがとうございます。  そして読者の皆様にも感謝を。何だかシリーズの舞台裏だけがゴチャゴチャしていく感じで申し訳ないのですが、ここまでお付き合いいただいてありがとうございます。  それでは、今回はこの辺りでページを閉じていただいて。  次回も無事に開いていただける事を祈りつつ、この辺りで筆を置かせていただきます。  なんか、五和も普通の女の子じゃなくなっていく[#地から1字上げ]鎌池和馬 [#改ページ]